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[2]<千尋>というバブル、<カオナシ>というバブル

『千と千尋の神隠し』で始まった21世紀(中)

浅羽通明

■名前とは何か――「千」の有用性と「千尋」の歴史性

 湯屋で働く男女は皆、千尋同様、また昔の丁稚や女中同様、湯婆婆に名前を奪われている。千尋の教育係とされた気のいい姉貴分はリンとのみ呼ばれている。ここでは、贅沢な名は削ぎ落とされて、業務上の呼び名のみが残される。日本の企業社会で、名前よりも社名と肩書き、部署が重要とされるように。

 最初に千尋の味方をしてくれた美少年ハクは、「湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ」と、千とされた千尋へ明かす。だから「いつもは千でいて、本当の名前はしっかり隠しておくんだよ」と。「ハク」も「千」同様、本当の名前ではない。しかし彼は、「千尋」に相当する本当の名前をどうしても思い出せないという。

 ここで私たちは、湯婆婆の支配する世界のマイナスの面を教えられる。

 千尋は豊かさの上げ底をいったん取り払われて、無力無能で使えない自分へ還元されなくてはならなかった。彼女は自分のミニマムを思い知り、しかし覚悟を決めて湯屋で働き始める。そしてグズでのろまながら全く使えないわけでもない等身大の自分を好きになり始める。それは上げ底ではない確かな自分の実力で得た達成感だ。彼女が「いきいきとしてくる」のは、達成感から生まれる自信と喜びゆえだろう。

 だが、そこには落とし穴がある。千となった千尋の自信と喜びは、誰かに使われる者が、誰かの役に立てたゆえの充実であろう。それを知った彼女は、いつしか千へとなりきり、千尋という名を忘れはじめていたのを、ハクに教えられる。それは、「豚の姿をした両親に平気になっていく」(宮崎駿「不思議の町の千尋―この映画のねらい」)過程と同時進行だ。

 わが国のそこここ、殊に会社には、この過程の果てに元の名前を忘れた男女があふれている。だから誰もかれもが、カエルでありナメクジなのである。

 湯屋で働く大勢のカエル男たちナメクジ女たちも、気前いい客が落とす砂金を血眼で奪い合い、イモリの黒焼きの為ならなんでもする、物欲と色欲ばかりを募らせて、その浅ましさを隠しもしない連中として描かれる。

 それでも、千尋がこうした世間と直面していったん千となる必要を宮崎監督は描いた。 「働くことによって、周りとの繋がりや、自己の価値観が持てる。だから他人の飯を食うことは意味のあることだ」と、『キネマ旬報』(2001年8月15日号)インタビューで語る。

 しかし監督は、こうした世間を全面肯定してはいないのだ。そんな湯屋の、そして日本の現実を、「自分も一ナメクジだ」と認めるような諦観による肯定をしていても。では、何が足りないのか?

 それは、元来の名前を忘れまいとする意志である。自分の本名を忘れる者などいないと思うかもしれない。だが、世間に組み込まれて呼び名や肩書でつながる関係に埋没して久しい大人たちは、働いて必要とされるようになる以前、役に立つ現実の自分とは違うところで生まれた自分の名前、千尋なら千尋という名に両親が託した意味はもちろん、千尋という古代までさかのぼれる日本語がまとってきた歴史と文化の深さ、広がりへ潜ってみる姿勢などとっくに忘れて久しいはずだ。

 だが、そうした意志を抱くならば、現実を生きながら、それを超える視座、すなわち現実を相対化して考えられる精神の余裕、働く現実とはまた別次元の「周りとの繋がりや自分の価値観」を持った自分を持つのはそう困難ではない。

 「千と千尋の神隠し」最後のクライマックスで、私たちはその威力を知る。これは次回の話題である。

 というのは、今回はそれを扱うまえに『千と千尋の神隠し』で考察しておくべきもうひとつのテーマが残っているからだ。

 それはこの物語の陰の主役といってもよいほどの印象を観客皆へ残すキャラクター、「カオナシ」である。

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筆者

浅羽通明

浅羽通明(あさば・みちあき) 

1959年、神奈川県生まれ。早稲田大学法学部卒業。みえない大学本舗主宰。著書に『試験のための政治学』(早稲田経営出版)、『ニセ学生マニュアル』3部作(徳間書店)、『大学で何を学ぶか』『思想家志願』『知のハルマゲドン』(小林よしのり氏との共著)『教養論ノート』『右翼と左翼』『昭和三十年代主義』(以上、幻冬舎)、『野望としての教養』(時事通信社)、『時間ループ物語論』(洋泉社)ほか多数。現在、webちくまにて「星新一の思想――とうにユートピアを過ぎて」を好評連載中 http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです