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山田洋次『東京家族』にガックリ(上)――致命的な演出力の弱さ

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 出来のよくない映画について批判めいたことを書くのは、正直、つらい。何も書かずに、見たことを早く忘れてしまうのが一番いい。

 もちろん面白い映画について書くのなら、話は別だ。それがなぜ面白いのか、どう面白いのかを、四苦八苦して何とか書き終えたときは、疲労とともに充実感を覚える。つまり、自分がなぜその映画に心惹かれたのかについて、言葉を絞り出してゆくことには苦労のしがいがある。

 だが、面白くない映画をくさすことは、つまりそれがなぜ面白くないかを書くことは、ひどく気の滅入る作業だ。何より、つまらなさ、退屈さに何とか耐えて見終えたわけだから、脳にストレスが溜まっており、そのせいでどうしても言葉が恨みがましくなり、意地悪になってしまう。

 なるべく敵をつくりたくない、といつもビクビクしているヤワな私でも、時間とカネを無駄にしたという思いも手伝って、どうしても言葉が攻撃的になるのだ。

 まあ、面白い映画について書く場合と同様、つまらない映画について、それがなぜつまらないのかを多少とも分析的に書くことは、自分の印象、感想を整理することになるから、まったく無意味というわけではないが――。

 前置きが長くなったが、小津安二郎の『東京物語』(1953)を山田洋次が「真似した」と自ら語る『東京家族』は、私にはさっぱり面白くなかった。140分超の上映時間を耐えるのが、ひたすら苦痛だった。

 そもそも、たんに小津作品をなぞるのではなく、物語を2012年5月に、つまり「3・11」以後の現代に設定するなど、いくつかの山田流の人生観、家族観にもとづく改変が加えられているにせよ、本作は映画以前のシロモノとしか言いようのない出来だった。

 というわけで、以下では『東京家族』のつまらなさを中心に書く(念のため言っておくと、私は編集部から本作について書けと言われたので、やむなくこの記事を書いている)。

<あらすじ:2012年5月、瀬戸内海の小島に暮らす平山周吉(橋爪功)と妻のとみこ(吉行和子)は、子供たちに会うために上京する。品川駅に迎えに来るはずの次男の昌次(妻夫木聡)は、勘違いして東京駅へ行ってしまう。周吉はタクシーを拾い、郊外で開業医を営む長男の幸一(西村雅彦)の家へと向かう。

 頼りにならない弟にあきれる長女の滋子(中嶋朋子)は、どうやら東京にやって来た両親をあまり歓迎していない様子で、むしろお荷物に感じているようだ。いっぽう、幸一の妻、文子(夏川結衣)は歓迎の支度に精を出す。やがて周吉ととみこが到着し、大きくなったふたりの孫に驚く。さらに遅れて昌次も現れ、家族全員が久しぶりに顔を合わせ、夕食のすき焼きを囲む。――そしてやがて、とみこが体調を崩し、死ぬ(以下、略)>

 なお、大して重要なことではないが、本作の主要人物は、小津の『東京物語』の「とみ(東山千栄子)」が「とみこ(吉川)」、「志げ(杉村春子)」が「滋子(中嶋)」というように、名前が変えられている者と、変えられていない者がいる。後者は、たとえば周吉(橋爪)、幸一(西村)、文子(夏川)そして小津作品で原節子が演じた紀子を、同名で蒼井優が演じている。だが、小津作品では未亡人だった前者に対し、蒼井優扮する紀子は、前記の平山家の次男・昌次(妻夫木)の恋人役という設定に改変されている(小津作品では、紀子の亡くなった夫の名は昌次ではなく、昌二)。

 というふうに、本作は時代設定や登場人物の名前だけでなく、人物設定の点でも小津作品とはいくつかの異同がある。しかし当然ながら、本作は小津作品のメイン・テーマである、戦後における核家族化の加速による「家族の崩壊・離散」、という主題を共有している。そして、終盤では小津作品とは対照的に、山田洋次的な「家族の再生への希望」、「厳しい現実をどう生き抜くか」といったテーマが、問題提起的に描かれはする。

 たとえば幸一は、急に往診に行くことになり、両親をお台場から横浜に連れて行く約束を反故(ほご)にする。また美容院を経営する滋子も、忙しさに追われて両親をどこにも案内できない。やがて滋子は幸一と相談して、忙しくて両親の相手も出来ないから、おカネを出し合って横浜のホテルに泊まってもらうことにする。小津作品で息子たちが両親を熱海の温泉旅行に送り出したのと同様、体(てい)のいい厄介払いである。

 このように中盤までは、家族のつながりの希薄化というテーマが、小津作品をなぞるように描かれ、後半では山田洋次的なモチーフが加味されはするが、いかんせん、

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