2013年02月04日
一例のみを挙げれば、家族4人を2人ずつ、食卓を挟んで互いちがいに正面を向かせて(つまり視線が交わらない対角線上に)坐らせ、しかも彼、彼女らを小津とは違い、かなり引いたカメラでとらえた画面には、小津映画をユニークに応用した黒沢清の独創性が鮮やかに刻印されていた。
つまるところ、小津に敬意を表しつつ「未来への希望」といったモチーフを添加したにせよ、「いかに撮るか」という勘がすっかり鈍ってしまっている山田洋次には、壊滅的な映画しか作れなかったということ――それが、お世辞にも熱烈な小津の崇拝者とは言えぬ私の、本作『東京家族』を見ての率直な感想である(普通の映画ファンをなめてはいかん、ということだ)。
それにしても、小津作品の志げ(杉村春子)がみごとに体現していた、今日のわれわれの多くの生活ぶりとリアルに重なる、自分の生活で手いっぱい、というせかせかした感じを前面に出した冷淡さ、ドライさ(ただし絶妙なユーモアを含んだ)が、中嶋朋子扮する滋子には、まったく感じられない。
これは役者の力量の問題である以上に、やはり山田洋次の演出力、演技設計が衰弱しているからだろう(たとえ山田洋次が、滋子/中嶋朋子を小津作品の志げ/杉村春子から、「毒」を抜いたキャラとして造形したにせよ、滋子には作中人物としての存在感がまったく欠如している)。
そして致命的なのが、周一を演じる橋爪功だ。抑制した、というより単に五感がマヒしてオブジェ化してしまったような不活発な演技(?)、あの学芸会以下のセリフ回しや動作はいったい何なのか。また幸一に扮する西村雅彦の、芝居がかったセリフ回しにも鼻白む……。せめてもの救いは、蒼井優と妻夫木聡の、作品の低調さに抗うかのような健闘ぶりだろうか。
ところで、本作で浮き彫りにされる、小津とは異なる山田のヒューマンな家族観、人間観を、映画評論家の吉村英夫氏は以下のごとく的確に要約している――「[小津の]『東京物語』が限りなく孤独に沈潜していく老父を描くのに対し、山田は若い世代への期待を胸に秘めつつ、[ラストで]老父が地域共同体とともに生き抜く決意を示唆して「希望」への思いを託」したと(パンフレット)。
(上)でも少し触れたように、私はこうした山田の姿勢自体を否定するつもりはない。それはそれで一つの行き方だと思う。前述のように、問題は『東京家族』において、そうした山田の家族観や人間観、ひいては現実認識が、説得力のある映画的表現を獲得していないという、その一点に尽きる。
小津の『東京物語』の主調低音である、すべては変化し無に帰するという無常観――などというと小津映画の表層/形式を徹底的に分析した蓮實重彦氏に叱られそうだ――が、あれほど痛切に観客の心に響いてくるのは、何よりもまず、小津の映画的表現が高度に磨き抜かれているからだ。
また、それでいえば、家族をめぐるさまざまな葛藤を描きながらも、物語を麗しいメロドラマに着地させたジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』(1941)は、ひとえにフォードの天才的な演出力によって、あれほど見る者の心を揺さぶる傑作となったのだ。
<付記――家族という抑圧装置について>
最後に社会学者・山田昌弘氏の好著『近代家族のゆくえ――家族と愛情のパラドックス』(新曜社、1994)に依拠しつつ、小津の『東京物語』にも山田洋次『東京家族』のテーマにも関わる、「近現代の家族とは何か」という大きな問題に、かすかに触れておきたい。
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