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ビンラディン狩りをエンタメ化した秀作、『ゼロ・ダーク・サーティ』(上)――真実とフィクションのはざまで

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 2011年5月2日に米海軍特殊部隊がパキスタンで遂行した、9・11テロの首謀者オサマ・ビンラディンの殺害。その舞台裏を中心に、関係者への入念な取材をもとに描いた劇映画が、キャスリン・ビグロー監督の『ゼロ・ダーク・サーティ』だ。周知のようにビグローは、イラクでの爆弾処理班の過酷な日々を、戦争中毒症(戦争依存症)のモチーフをまじえて映画化した『ハート・ロッカー』(2008)で、第82回アカデミー賞の6部門を受賞した女性監督である。

 しかし私は、『ハート・ロッカー』という映画には、いまひとつ乗れなかった。題材はともかく、題材の扱い方に、つまりは映画の語り口や描写自体に、波長が合わなかったのだ。爆弾処理の場面でも、“スゴイことを撮りましたよ”的なあざとさを感じたし、米軍と敵側の武装勢力との戦闘場面も冗長で緊迫感を欠いていた。

 そして、スクリーンを揺るがす爆破の場面で観客の肝を冷やす、という演出にも「いかにも狙った感じ」がして、違和感を覚えた。また、少し前までハリウッドの主流だった、落ち着きなくフラフラ動くカメラ・ワークにも興をそがれた。

 なので、『ゼロ・ダーク・サーティ』も気乗り薄で見に行った。ビンラディン殺害という大事件についての興味から見た、というのが率直なところだ。

 が、予想に反して、「超大作」といえる158分の本作を、私は最後まで退屈せずに見ることができた。サスペンス活劇としても、ビンラディン殺害のルポルタージュ的フィクションとしても、それなりに楽しめた。とくに傑出した場面はないが、『ハート・ロッカー』にみられた仰々しさ、もっともらしさは払拭されており、おおむね抑えの利いたタッチで全編が進行してゆく。ミステリー演出や自爆テロや標的殺害の描写も、けっして悪くない。

 少なくともビグローの演出は、全編をつうじて、物語の「本当らしさ/リアルさ」をそつなく維持している。つまり、観客をシラけさせる嘘臭さ――洋邦を問わず多くの現代映画にみられる――を感じさせなかった(本作を見た映画狂の知人の感想はまったく違ったが)。

<物語(ネタバレあり):ビンラディン捜索に巨費を投じながらも、一向に手がかりを得られないでいたCIA(アメリカ中央情報局)は、2003年、パキスタン支局の情報分析官として、まだ20代半ばの高卒の新人女性を抜擢する。本作の主役マヤ(ジェシカ・チャスティン)だが、彼女は情報の収集と分析において、抜群の能力をもっていた。――だが、その後マヤは、CIAによる捕虜の拷問、爆破テロとの遭遇、自爆テロによる同僚の死亡、上司との対立、自らの使命ともなった一進一退の情報戦、などなどの「対テロ戦争」の苛烈な現実に向きあうことになる。

 そして8年間の紆余曲折のはてに、ついにマヤは他の分析官が気づかなかった、ビンラディンの連絡係<アブ・アフメド>の正体を突き止める。結局それが糸口になり、CIAの監視チームによって、ビンラディンが潜伏している可能性のある豪邸が特定され、殺害作戦が決行される(映画でも描かれるように、実際の作戦開始の時点でも、CIAはくだんの豪邸にビンラディンが潜伏している可能性はおよそ60%、と見ていたようだ。

 エマのモデルになった女性分析官だけが「100%確実」と確信していたというのが実情のようだが、だとすればCIA は、なんとも思い切ったギャンブルに出たことになる――。ちなみに“ゼロ・ダーク・サーティ”とは、特殊部隊がビンラディンの潜伏先に踏み込んだ「午前0時30分」を意味する軍の専門用語>

 というように、『ゼロ・ダーク・サーティ』を見る者は、実際のビンラディン殺害にいたるまでのCIAの諜報活動、および特殊部隊の奇襲作戦の経緯を、大まかにではあれ、知ることができる。その点でも、この映画は興味深かったが、もちろん、それは以下に述べるように、本作がビンラディン殺害をめぐる真実を、「ありのままに/再現的に」描いている、ということでは全くない。

 私がこの映画に退屈しなかった最大の理由は、

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