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 第2回でも参照した評論家の大宅壮一に再度ご登場願おう。1935(昭和10)年に、次のようなジャーナリズムの現状分析を記している。

 「フリー・ランサーといふよりはむしろ『中央公論』『改造』向き執筆者群といつたやうなものが、二三十人もゐて、今月は『中央公論』へ、来月は『改造』へ、流行りつ子は両方かけもちで、といつたやうな調子でお座敷をつとめてゐるのである」

 『改造』は『中央公論』とライバル関係にあった雑誌だ。1920年代前半、両誌は拮抗しあいながら対象領域を漸次拡大していった(創刊は『中央公論』が1899年、『改造』が1919年)。とくに時代を画する社会科学的な論争の場として機能することで、商業的にも社会的にもステータスを増大させた。

 結果として、論壇のベースを構成するようになる。販売競争の過程で、新たな誌面スタイルが練りあげられ、それが定着していく。他誌へも影響をおよぼした。当時、ともに「高級雑誌」と呼ばれ、またしばしば「二大総合雑誌」と位置づけられもした。

 誌面スタイルの改良に際して、読者の要望を先取り/後追いした目次がつくられる。その結果、人気のある特定の「執筆者群」に依頼が集中するわけだ。漠然とだが、「『中央公論』『改造』向き」とでも形容するほかない書き手たちが存在した(じつは、この指摘は大宅自身にもそのままあてはまる)。

 一定の市場を抱えた固有名たちによって誌面が占有される。とすれば、少なからず言論の固定化がもたらされるだろう。その傾向性において、論壇という場(=「お座敷」)は形成されたのである。そして、リストに登録されることがとりもなおさず「論壇人」の条件のひとつとなっていた。

 こうした状況から派生した現象はいくつも指摘できる。3点ほどあげておこう。

 ひとつは、新規媒体の誕生。「お座敷」の確立はそこから溢れた書き手を生む。あるいは、「流行りつ子」以前の書き手を識別する。彼らは自ら場を創設するほかない。メディア史を紐解けば、1930年代前半に雑誌創刊ブームが到来していることがわかる。とすれば、それはすでに飽和状態にあった商業ジャーナリズムにおける必然的な帰結だったというべきである。

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筆者

大澤聡

大澤聡(おおさわ・さとし) 批評家、近畿大学文芸学部講師(メディア史)

1978年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員を経て、現在、近畿大学文芸学部講師。専門はメディア史。出版産業やジャーナリズムの歴史的変遷を分析。デジタル時代の言論環境に関して提言をおこなう。文芸批評も手がける。著書に、『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店)など。Twitterは、@sat_osawa

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