2013年04月01日
今回は、一歩手前に戻って、その前提となった言論環境を整理してみよう。当時、「フリー・ランサー」と呼ばれる一群の評論家が存在した。たとえば、木村毅は「フリー・ランサア小論」と題して、以下のような解釈を記している。木村が『東京日日』に迎え入れられる1年前、1933年の文章だ。
未成熟段階のジャーナリズムにおいては、編集者が雑誌記事の執筆も担当していた。あるいは、「文士」が編集者を兼ねていた。ところが、ジャーナリズムの発展とともに読者のリテラシーと要求が高度化していく。すると、そうした「片手間仕事」「素人細工」が許容されがたくなる。その結果、専門の書き手、つまり、「文筆上の自由労働者」が必要とされるようになった。
そう、これが「フリー・ランサー」誕生の経緯である。かくして、「編輯技術と文章技術が段々分化し」ていく。この事態を、木村は「出版資本主義の完成」と定式化してもいる。文壇方面(文芸)においても、論壇方面(評論)においても、およそ同様である。
木村は「評論方面」の例として、長谷川如是閑や新居格の名をあげる。さらに、石濱知行や佐々弘雄、向坂逸郎、大森義太郎といった「青壮学者」まで「フリー・ランサー」と化してしまったという。この周辺をもう少し掘り下げておこう。
1920年代後半以降、批評ジャーナリズムは大学人を書き手として積極的に登用するようになる。その背景には次のような言論配置図の変化があった。マルクス主義全盛のさなか、いわゆる大学左傾分子の追放が大々的に執行された。1928年には、大森義太郎や石濱知行、佐々弘雄、向坂逸郎らが、そして1930年には、山田盛太郎、平野義太郎らが大学から立て続けに流出する。いずれも政治学者や経済学者だ。彼らはこぞって商業ジャーナリズムに地滑り的に浸入していく。
哲学者の三木清もすでにアカデミズムの道を断念していた。早々にジャーナリズムに活路を見出す。さらに後続する世代は、そうした環境を前提に言論活動を展開することになるだろう。はなから大学でのコースを勘案しない(できない)。アカデミズムからジャーナリズムへの回路は、大正デモクラシー期に、吉野作造らによって先駆的に開設された。それが、この時期、より広範に認知され一般的な選択肢と化したのである。
そこには当然ながら、ジャーナリズムの領域拡大という条件の変化が関係している。ここでは、さしあたり、2点に要約しておく。
ひとつは、メディアの量的拡充。論壇や文壇の基盤を構成する総合雑誌や文芸誌、大衆雑誌、各種専門誌、あるいは各新聞の学芸欄など、一連のメディアの刊行点数やボリュームが急増した。
なかでも総合雑誌の躍進が著しい。第6回で少し触れたように、1920年代前半に、『中央公論』と『改造』が拮抗しあいながら対象領域を拡大していった(両誌はしばしば「二大綜合雑誌」として括られた)。さらに、『文藝春秋』(1923年創刊)や『経済往来』(1926~35年/後継誌『日本評論』1935~51年)など、個別ジャンルに特化していた雑誌までもが総合雑誌に転態しはじめる。これらは、のちに「四大綜合雑誌」として概括される。
もうひとつは、
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