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村上春樹氏の新作に、トラウマに向き合う初の積極性を見た

小山内伸 評論家・専修大学教授(現代演劇・現代文学)

 村上春樹氏の3年ぶりとなる長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋)は、深い喪失に見舞われた主人公が、トラウマを克服すべく過去と向き合う旅を描いたものだ。

 物語はこんな一文に始まる。

 「大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。」

 この書き出しで私が想起したのは、太宰治の第一短編集『晩年』の巻頭に置かれた有名な短編「葉」の冒頭だ。

 「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」

 ちょうど1月から7月ごろまで「死のうと思っていた」ことになる。この短編では、20歳過ぎの青年の絶望と、死への誘惑がつづられているものの、なぜ死を求めていたのか、理由は焦点を結ばない。

 それに対して村上氏の新作では、理由が明快に示されている。

 多崎つくるは名古屋で過ごした高校時代、男女5人の親密なグループに属していた。他の4人は「赤松(アカ)」「青海(アオ)」という男性と、「白根(シロ)」「黒埜(クロ)」という女性。いずれも苗字に色が含まれ、つくるだけが「色彩を持たない」男だった。それでも5人は正五角形のように美しい調和を保っていた。

 ところが、東京の大学に進学したつくるが大学2年の夏休みに帰郷すると、そのグループから一方的に絶交を言い渡される。「悪いけど、もうこれ以上誰のところにも電話をかけてもらいたくないんだ」とアオが言う。理由は「自分に聞いてみろよ」と。

 しかし、つくるにはまったく心当たりがない。完璧で調和のとれた世界、いわば楽園を理不尽に追放されたつくるは、深い喪失感にさいなまれ、文字どおりに色彩を欠いた生活に沈む……。

 村上氏はこれまでも「喪失」を抱えた主人公を描き続けてきた。

 『ノルウェイの森』(1987年)では、恋人が精神を病んで療養所に入所し、やがて自死する。『ねじまき鳥クロニクル』(95年)では、とつぜん妻が失踪する。いずれも、愛する女性が手の届かない闇の彼方へと行ってしまう。これらの出来事は、主人公のコントロールが不能な状況下で否応なく起きる。つまり受動的に巻き込まれるタイプのストーリーだ。

 「巻き込まれ型」の物語パターンは村上氏が得意とする作風と言ってよい。『羊をめぐる冒険』(82年)では、「特別な羊」を探せと脅迫を受け、冒険に出るハメになる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(85年)でも、暗号を脳内処理する「計算士」の「私」が、敵対する「記号士」に狙われ、非日常的な世界へと踏み迷う。

 今回の新作も、唐突に絶交を言い渡され、喪失の日々が始まるという点でやはり「巻き込まれ型」だが、従来の作品と一線を画する面が二つある。

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