すでに書かれていることかもしれないが、そして暴論、邪推であることを承知の上でいえば、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、正真正銘の3・11小説だと思う。3・11後の心情を反映しているとか、東日本大震災後の社会の意識を投影している、といったことではなく、「そのもの」に思えるのだ。
誰もが気づくことだろうが、主人公の多崎つくるが、高校時代の親友グループから絶縁を告げられた後、うちひしがれた自身の姿を鏡で凝視するシーンには、こう記されている。
「巨大な地震か、すさまじい洪水に襲われた遠い地域の、悲惨な有様を伝えるテレビのニュース画像から目を離せなくなってしまった人のように」
幸せな共同体を突然奪われる、という状況は、たしかに震災と重なっている。しかし、それ以上に、多崎つくるという主人公は、被災地や被災者そのものではないかと思うのだ。
「色彩を持たない多崎つくる」は、一般的には「色彩を持たない」「多崎つくる」と読まれているのだと思う。直接的には、姓に赤や青といった文字が入っている友人の中で、一人だけ色彩を持たないことを意味する。同時に、無色透明なイメージも与えられているのだろう。
しかしここで、「色彩を持たない多崎」「つくる」という切り方を提案してみたい。
そもそも多崎という姓は何を意味するのか。崎とは岬のこと。岬が多い場所といえば、リアス式海岸になる。つまり、多崎=三陸海岸=被災地なのではないか。
そして、津波に飲み込まれた被災地は、文字どおり、色彩を失い、泥の色、一色になっていた。あるいは、原発事故の被災地の場合は、生の色を失ったといってもいい。
つまり、「色彩を持たない多崎」とは、「津波や原発事故で被災した東北地方」を意味してはいないだろうか。
では、「つくる」とは何か。主人公の多崎つくるの「つくる」は
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