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電子書籍への違和感(上)――村上春樹の新作が電子書籍だったら?

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 お約束の「お祭」だろうか?

 村上春樹の新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)は、発売7日で発行部数100万部となった。初版30万部、事前予約、書店注文が殺到し、発売日(4月12日)までに4刷まで決めていたが、発売以降3日間で実売率が98%以上となり、4月18日に7、8刷を決定し、計100万部に至った。

 初版部数も発売日までの増刷決定部数ももちろん破格だが、それでも足りなかった。品切れ店が続出し、文藝春秋社の電話は鳴りやまなかったという。

 出版業界紙『新文化』の丸島基和社長は、以上のような状況を報じた同紙4月25日号のコラム「社長室」で、文藝春秋の努力を認め、対応の迅速さをある程度評価する。

 “文藝春秋は町の書店をないがしろにしてはいなかった。重版対応は早く、納期については印刷・製本会社の協力を得て、最善を尽くしてもいた。それでも「予想外の初速」は同社が初めて体験する注文ラッシュを生み、営業局では「申し訳ない」と謝罪している。これについては、他の出版社も同情的だ”

 だが、文藝春秋が最善を尽くしても、丸島がそれを評価しても、他の出版社が同情しても、小さな書店への配本が決定的に不足したことに変わりはない。内金をいただいた予約分も確保できない店が続出した。

 一方で大量に配本された大型店、チェーン店では、おそらく売れ残りも出、それらは返品にまわる。委託制の限界、弊害が再び声高に論じられることになろう。そもそも、いくらスピーディに重版しても、紙の本は有限数しか刷れないし、鳴りやまぬ電話やファックスにすべて応じて刷り部数を決定したら、出版社はやがて返品の山に埋もれる。

 「そんな時、電子書籍の可能性を考えてしまうのだが」と丸島は「社長室」を締め括る。

 それを読んだぼくは、「違う!」と呟いた。それは二重の意味での「違う!」だった。

 一冊一冊形ある冊子体であればこそ、限りある数の本を日本中の書店に分配せねばならないからこそ、どうしたって(過)不足が生じる。ならば、冊数という制約から自由な電子書籍ならば、必要なところにはかならず届き、読者も書店も出版社も皆が幸せになるのではないか。丸島の思考回路は、よく分かる。

 だが、もし仮に『多崎つくる』が電子書籍として流通し、配本不足や売り切れの心配がまったく無かったとしたら、即ちその気になればいつでも入手できるとしたら、発売3日で30万部がほぼ売り切れ、1週間で100万部を刷らなければならないような事態が発生しただろうか? 

 実際の『多崎つくる』はモノであり、うかうかしていたら入手できなくなる可能性があるからこそ、いわばモノである以上どこまでもついてくる「希少性」故に、「お祭」は発生したのではないだろうか?

 もちろん、村上春樹は超人気作家であり、『1Q84』以来4年ぶりの作品であるから、刊行されると同時に読みたい熱狂的なファンも多く、彼らは電子書籍であってもリリース即ダウンロードしたかもしれない。

 だが、いくら村上春樹でも、そのようなファンが何十万人もいるとは思えない。電子書籍として発売したら、発売時の読者の反応は違ったものになっていただろうというのが、「違う!」の第一の意味である。

 もう一つは、電子書籍が

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