2013年05月28日
日本映画の宝、溝口健二監督(1898~1956)の特集上映が東京のシネマヴェーラ渋谷で開催中だが(6月7日まで)、現存する最も初期の溝口作品、『ふるさとの歌』(1925、サイレント)を含む、彼の傑作、秀作群が連続上映されるという、なんとも貴重な催しだ(毎度のことながら、シネマヴェーラに多謝!)。
さて今日、溝口が「発見」され続けねばならないのは、彼が日本映画史に屹立する「巨匠」だからではない。また「日本的情緒」を表現した監督だからでも、「女性映画」を十八番(おはこ)にした監督だからでもない。そうではなく、そうした出来合いのイメージから溝口を解き放つためにこそ、われわれは今、溝口作品を見なければなるまい。
なるほど、戦後の充実期に、『西鶴一代女』(52)、『雨月物語』(53)、『山椒大夫』(54)という3本の名作が、ヴェネツィア国際映画祭で3年連続受賞し、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの絶賛も手伝って、溝口は“世界のミゾグチ”としての名声を得た。それはむろん、世界映画史にとっても、われわれ映画ファンにとっても、じつに喜ばしいことであった。
が、その一方で溝口健二は、いまだその全貌が明らかにされていない、<未知の映画作家>なのだ。まず、溝口が生涯に撮った90本の映画のうち、現在残っているのは34本しかないという痛恨事がある。――詮ないことを言うようだが、世界のどこかで、淀川長治が見て感激したという、男女の愛憎をめぐる怪談、『狂恋の女師匠』(26)や、怪盗ルパンの翻案である探偵活劇『813』(23)のフィルムが発見されないだろうか。
もっとも、現存する34本の映画を見ても明らかだが、溝口は「巨匠」のレッテルにはそぐわない、無節操とさえ呼べるほどの、じつに多種多様なジャンルと作風の映画を撮っている。そして、それらの作品群をていねいに見続けることこそ、とりもなおさず、溝口健二を出来合いの「巨匠」像から解放することになるだろう。
たとえば、サイレント期の『滝の白糸』(33)、『折鶴お千』(35)などの明治ものでは、入江たか子や山田五十鈴といった女優が、愛する男の立身出世のために自己を犠牲にするというメロドラマを演じる。
そして従来、一場面がカットされずに切れ目なく持続する、長回しによるワンシーン・ワンショットが溝口の代名詞のように言われてきたが、とりわけ前者では細かくカットが割られ、めまぐるしいほどカメラが動き、くだんの通説をくつがえしてくれる。またこの2作では、溝口が複雑なフラッシュバック/回想形式の話法に挑戦していることも、興味をそそる。
日本映画の第一次黄金期=1930年代のトーキー時代に入ると、溝口は、『浪華悲歌(なにわえれじい)』(36)、『祇園の姉妹(ぎおんのきょうだい)』(36)という、それまでの作風とはがらりと変わった「リアリズム」映画の傑作を撮る。
前者は、日本映画初の方言/関西弁の使用、20年代半ばから流行した、大衆文化のアメリカ化の典型たる「モガ」のイメージ、それに関連する性の商品化、伝統的価値と性役割の揺らぎなどの近代化のテーマが、山田五十鈴扮するヒロイン/「不良少女」の言動やファッションに投影されている。過酷な運命に翻弄されながらも、気丈さを失わず生きていくヒロインのドラマは、大阪の夜景のみごとなロケーションとあいまって、スリル満点だ。
後者は、花柳界を舞台に古風な姉芸者と女学校出のドライな妹芸者の対比を通じて、花柳界の因習、ひいては男性中心主義を批判的に描くユニークな作品である。本作ではロング・ショットの長回しという、“溝口印”のひとつが確立されたが、また撮影現場は、即興性を重視した溝口が、黒板上に日々セリフを書き換えるという過酷なものとなったそうだ。
戦争前夜には、溝口は社会批判的な作品から一転、『残菊物語』(39)などの芸道ものを撮る。歌舞伎界で芸に生きる男を献身的に支える女――その哀切なドラマを、溝口好みのカメラの長回しが、息をのむような緊張感で描き抜いた超傑作である。
そして本作を見ると、溝口の長回しやロング・ショットが、対象/人物を冷徹に突き放し、対象への感情移入を拒む手法だ、という通説が大きく揺らいでくる。なぜなら、距離を置いた対象を、えんえん凝視するロングの長回しによってこそ、見る者はかえって映画のなかへ深く没入してゆくからだ。
もっとも、戦後の最高傑作のひとつ、やはり花柳界を舞台にした『祇園囃子』(53)では、
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