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「傑作」という言葉さえ無力化する、前人未到の“脳内ラブストーリー”――黒沢清『リアル~完全なる首長竜の日~』(1)  “世界のクロサワは今やアキラではなくキヨシである” 

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 私は今、黒沢清監督の『リアル~完全なる首長竜の日~』を見て、そのあまりの素晴らしさに呆然自失している。が、なんとか気持を立て直し、まずは枕として、WEBRONZA「黒沢清はイーストウッドを超えた!?――WOWOWの連ドラ、『贖罪』第1話に驚愕!」(2012/01/18)のイントロに書いたのとほぼ同じことを記す。

 黒沢清はこれまですでに、さまざまなジャンルの傑作を何本も撮っている。

 たとえば日本映画史を画したサイコ・スリラー、『キュア/CURE』(1997)、変則的なホラー『叫』(2006)、『回路』(2000)、“ノンジャンル若者映画”『アカルイミライ』(2002)、分身スリラー『ドッペルゲンガー』(2002)、ユニークな家族映画『トウキョウソナタ』(2008)、「B級」ホラー『DOORIII』(1996)、前記オムニバス・ドラマ『贖罪』(2011)、しがない便利屋二人組を主人公にしたコメディ活劇、『勝手にしやがれ!!』シリーズ(1995~96)、スポ根競輪映画『打鐘(ジャン)――男たちの激情』(1994)……などなど。

 こうしたキャリアからも一目瞭然だが、黒沢清は現在の邦画界にあって、他の追随を許さない突出した才能の持ち主である。いきおい彼の新作は、クランクアップされるたびに大きな「期待」を抱かせる。だが黒沢の新作は、毎回「期待」をはるかに上回り、いや「期待」なんてものを蹂躙(じゅうりん)し、私たちをノックダウンする。

 そもそも「期待」とは、その対象がある程度どんなものかを予想できる心理だ。たとえば、「期待どおりの傑作」と言った場合、それはあらかじめ思い描けるイメージの範囲内におさまる映画のことだ。が、黒沢清の映画はちがう。黒沢の撮りつづけている作品は、まぎれもなく彼自身の作家性が刻まれているのに、そのつど、「期待」や「予想」を超えた未知の衝撃を見る者にあたえる。

 黒沢清自身、これまで不可能だとされていた「人の脳内/心の中を撮影する」ことに挑んだと語る『リアル』も、<黒沢らしさ>に貫かれてはいるが、それは自己模倣として反復されるのでは全くなく、あくまで大胆に更新され、恐るべき進化をとげている(黒沢清の作家性、ないしは作家的特徴の詳細については、前掲WEBRONZA、および拙論「映画は千の目を持つ――黒沢清論」<「黒沢清・誘惑するシネマ」【慶応義塾大学アート・センター/ブックレット08、2001、所収】>、を参照されたい)。

 あるいはこう言ってもよい。『リアル』は、黒沢清が断固として彼自身でありながら、と同時にもう一人の未知の黒沢清と出合うことで生まれた、既視感をいっさい剥(は)ぎとられた異形の傑作である。

 いや、というかむしろ、鵺(ぬえ)のような正体不明の化け物に変異している『リアル』は、「傑作」という言葉さえ無力化してしまう、映画が映画でなくなるギリギリの地点にまで到達した未曾有のフィルムだ……。

 ともあれ以下では、『リアル』の底知れなさに、なんとか言葉でアプローチしてみたい(繰り返すが、いまだ興奮さめやらぬ状態で書いているので、まっとうな文章になるかどうかは非常に心許ないが。なお、先日TBS系で放送された本作の宣伝番組で、“世界のクロサワは今やアキラではなくキヨシである”、という意味のキャッチコピーが流れたが、的を射たフレーズだ)。

<物語の不完全な要約:浩市(佐藤健)と淳美(あつみ:綾瀬はるか)は幼なじみで恋人同士だった。だが1年前、漫画家の淳美は自殺未遂により昏睡状態に陥ってしまう。浩市は淳美を目覚めさせるため、<センシング>という最先端の脳神経外科医療によって彼女の脳内へ入っていく(“センシング”のもともとの意味は、「意思疎通」)。「なぜ自殺しようとしたのか」という浩市の問いに、淳美は「首長竜の絵を探してきてほしい」と頼むだけだった。首長竜の絵を探しながら、何度も淳美の脳内へ入っていき対話を続ける浩市の前に、見知らぬ少年の幻覚が出現するようになる……。

 そして、<首長竜>と<少年>という二つの謎の先に、15年前にふたりが封印したある事件があったことが明らかになるが、やがて、それまでのすべてを覆すかのような驚愕の真実が明らかになる――。(ちなみに『リアル』の原作は、鍼灸師でもある乾緑郎のミステリー小説、『完全なる首長竜の日』だが、黒沢清+田中幸子の脚本は、原作の物語や人物設定を大幅に変更している)>

 このように、本作はSFミステリーであると同時に、昏睡状態に陥った愛する人の意識の中に潜入し、センシングによって相手と再び心を通わせようとする恋人のドラマである点で、究極のラブストーリーだ(私はラストで不覚にも泣いてしまった)。

 さて、まずお断りしておくと、前記の「不完全な要約」の先に展開される『リアル』の物語に触れることは、本稿では最小限にとどめたい。複雑怪奇に入り組み――ある意味おそろしくシンプルだが――、不意打ちの連続が仕掛けられた戦慄的なストーリーを、本作を見る方々がそれぞれ自由に楽しみ、恐怖し、混乱してほしいと思うからだ。

 ただし、私自身が考える『リアル』の“最良の見方”、そしてそれに関わる、映像における主観/客観、脳内/脳外、仮想/現実という2分法の設定、およびその境界の消失、ないしは溶解については順を追って述べる。

 したがって、本稿では次回以降、『リアル』の物語の核心、および詳細についてはほとんど触れずに、本作における黒沢清の作劇や画面構成などを抜き書きにしてみたい。また、とりわけ印象深いショットや場面をもピックアップしてみたい。

 さらに、今しがた触れたように、ある種の映画における<主観的映像>と<客観的映像>の複雑な相互侵入――これこそ『リアル』の手法の肝―― についても、やや詳しく論じてみたい。

 急いで付言すれば、『リアル』は、W主演の佐藤健、綾瀬はるか、そして中谷美紀ら俳優陣の魅力を存分に堪能できる作品だが、芝居がかったTVドラマ的な演技を完全にそぎ落とした、しかし“自然体の演技”とも微妙にちがう彼、彼女らのセリフ回しや身のこなしは、それが脳内場面であろうと脳外場面であろうと、それぞれのシーンに確かな存在感で、文字どおり“リアル”に映り込んでいる。

 むろん、それをなしえたのは、役者から最良の演技を引き出す黒沢清の天才的な演出力であり、名手・芦澤明子のみごとなカメラであり、永田英則の秀逸な照明である。

 それにしても、場面に応じてさまざまに組み合わされた光――順光、逆光、斜光など――をあてられた綾瀬はるかの顔は、

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