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「傑作」という言葉さえ無力化する、前人未到の“脳内ラブストーリー”――黒沢清『リアル~完全なる首長竜の日~』(2) 主観と客観が相互侵入する戦慄

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 *本稿(1)で述べたように、『リアル~完全なる首長竜の日~』の物語に即していえば、浩市はセンシングによって、何度も淳美の脳内/心の中/意識の中に入っていく。そして少なくとも前半までは、脳内の場面と現実の場面は、画調ないしは画質のちがいによって、明確に区別できる(かの)ように映像化されている。

 大まかに言って、脳内場面は光量を抑えた、かすんだような薄暗い逆光ぎみの画調で、おそらくその過半でスモークが焚かれている。それに対し、現実の場面の多くは、フラットぎみに光があてられている。そのため、現実の場面の主舞台となるセンシング・ルームの、オフホワイトの壁に囲まれ、さまざまな医療器具が置かれた空間は、鮮明な輪郭線をおび、クリアでメタリックな感触を放っている。

 また、沢野(オダギリジョー)が編集長をつとめるコミック雑誌社の部屋も、「現実らしさ」「日常感」を表す陰影の少ない光線処理がなされている。

*がしかし、浩市が淳美の脳内にダイブするセンシングを繰り返すうちに、その療法の強い副作用のせいで、彼は淳美の脳内でも、現実に戻って来ても、周囲にさまざまな幻覚を見るようになる(かのように描かれる:前述のように、ここでは触れることができない理由によって、中盤までの浩市のセンシングの場面について記す場合は、「かのように」と付言しなければ厳密さを欠くのだが、以下ではあえてそれを省く)。

 現実が確固たる現実であることを保証する、いわば<定点>であるはずの栄子/中谷美紀や沢野編集長/オダギリジョー、そして彼のアシスタント・高木真悟(染谷将太)さえもが、ゾンビ化して浩市の前に現われる。しかも、浩市はその後もセンシングを続け、淳美の脳内の仮想世界でさまざまな不可解な存在や現象に遭遇する。したがって、観客は浩市ともども、どこからどこまでが現実なのか非現実なのか、その境目が見定めにくくなる。

*要するに、『リアル』の終盤のヤマ場以前までは、浩市と観客は、(1)浩市の日常的現実(2)淳美の脳内世界(3)センシングの繰り返しの副作用によって浩市の見る、(1)と(2)における幻覚の世界、という三つの次元を体験する。

 そして厄介なことに、それらの次元は次第に、たがいに見分けがたく相互侵入しはじめる。つまり、そうした幻惑的な描写によって、浩市と観客は、三浦哲哉氏が力作『サスペンス映画史』で言うところの、現実/非現実、真/偽を識別する確固たる足場を失うことで、宙吊り状態のただなかに投げ出されるという映画的サスペンスを体験することになる(こうした危うい宙吊り/サスペンス状況を恐怖しつつ面白がれるか、あるいは理詰めで考えすぎて躓(つまづ)いてしまうかが、『リアル』を見るうえでの最大の急所だ)。

*一般的に言って、映画というメディアの最大の特徴のひとつは、夢や妄想や幻覚といった<主観的なもの>を、映像という<客観的なイメージ>で描ける点だ。

 たとえば、Aという登場人物が見ている夢、あるいはAの脳内世界(潜在意識、無意識を含めて)がカメラによって映像化されれば、観客はそれを<客観的>にスクリーン上に見ることができる。ゆえにそれは、Aの主観的=1人称的映像であると同時に、観客も共有できる3人称的な客観的(であるかのような)映像だといえる(またそこでは、Aに観客が多かれ少なかれ同一化する、ということが起こる。さらに、くだんの映像が作中ではAにしか見えていない場合、もしくはA以外の人物にも見えている場合、さらにすべての人物にも見えている集団幻想、ないしは共同主観の例など、さまざまなケースが考えられる)。

*要するに映画は、こうした夢や幻覚や妄想のような主観的イメージを、もしくはある特定の人物の脳内世界・心の中・意識の中といった可視化しえない<内部>を、いわば外側にめくり返して、あたかもそれが<客観的>に実在するかのように――映像として――描きうる最強の“魔術的”メディアなのだ。

*事実、これまでにも少なからぬ映画作家が、こうした映画の特性を活かして夢や幻覚の描写を試みたばかりか、“主観的なものを客観的に映像化できる”、映画ならではの手法を逆手にとって、主観と客観の境界を故意に曖昧にし、観客を幻惑させてきたのである(それを面白いと感じるかどうかは、個々の観客によって異なるだろうし、また映画作家の側の演出の巧拙もさまざまだから、いま記しているのはあくまで一般論だ。

*ともあれ黒沢清の『リアル』こそは、映画にしか描けない、そうした主観と客観の相互侵入をその極限まで突き詰めた、しかもハラハラドキドキが片時も途切れない、エンタメ性全開の前代未聞のラブストーリーなのだ(『リアル』は、見る者を「納得」させるのではなく、「打ちのめす」映画である)。

*ちなみに、さきに『リアル』の「サスペンス」の楽しみ方について言ったことと関連するが、あまりキマジメに、理詰めで謎解きに挑戦せずに、画面の流れを虚心に眺めているほうが、本作をよりいっそう面白く見れると思う。そうしないと、ある思想家が言ったように、「騙されない者が混乱する」という形で、本作と“出会い損なう”かもしれない(もっとも、謎解きの興味を完全に放棄するのではなく、それがあまり前面に出ないよう自分の脳を(!)コントロールするのが、本作の旨味を“骨までしゃぶりつくす”最良の見方だと思われる。そしてそれは、意外に簡単なことだと思う)。

 つまるところ、『リアル』の黒沢清が確信犯的に狙ったのは、彼自身、前記のTV番組で語っていたように、

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