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「傑作」という言葉さえ無力化する、前人未到の“脳内ラブストーリー”――黒沢清『リアル~完全なる首長竜の日~』(3) 簡潔な場面転換、<縦の構図>の驚くべき立体感、<幽霊><廃墟>など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回は、これまでに触れえなかった『リアル~完全なる首長竜の日~』の名ショット、名場面をピックアップしつつ、それに関する黒沢清の映画術に触れてみたい。

*『リアル』は(2)で述べたように、説明的な要素の思いきった省略ゆえに、謎が謎を呼ぶプロットにもかかわらず、簡潔で小気味よいテンポで展開する。

 そのスピーディーな快走ぶりは、主人公が犯罪歴の抹消を条件に企業スパイとして他人の意識(夢)の中に入っていく、テーマ的には『リアル』と共通する『インセプション』(クリストファー・ノーラン、2010、148分!)の、夢と現実が何度も反転する描写の「あざとさ」、「なんでもあり」状態ゆえの緊張感の欠如とは真逆だ。ちなみに『リアル』の127分という上映時間は、60分くらいにしか感じられない。

 たとえば、浩市が淳美の脳内にダイブするところは、繰り返されるにつれ、彼がセンシング・マシーンに横たわるところさえ、しばしば省かれるようになり、淳美の意識化への潜入を示す微細なドット/水玉模様の映像を、句読点のように短く見せたのち、周囲の空間がぼやけて溶け崩れるような映像を、これまた短く見せるだけとなる。そのスムーズな場面転換は、ハリウッド古典映画のなめらかなオーバーラップを連想させる。

*黒沢清は、溝口健二、ジャン・ルノワール、オーソン・ウェルズ、増村保造、大島渚らと同様、画面の奥行きを活かした<縦の構図>を巧みに使いこなす映画作家だ。

 いきおい『リアル』でも、<縦の構図>による印象深いショットは頻出する。たとえば冒頭の、机に向かいマンガを描いている淳美を手前に配した彼女の部屋のシーンでは、画面奥のベランダに浩市の姿が見える。

 医療センターの廊下の場面では、手前に浩市が立ち、彼からかなり離れた画面奥に、白衣の栄子/中谷が立つ。センシング・ルームの場面では、横たわる浩市や彼の傍らに立つ栄子/中谷の向こうを、看護師二人が横切る。

 脳内シーンでも、画面奥の机に向かいマンガを描いている淳美と、手前に立つ浩市の間の空間に、淳美の無意識が投影された(?)、全身に切り傷が刻まれたような醜怪な化け物の幻覚が現われ、折り重なった数体のそれは最初、屍のように動かないが、やがてゾワゾワと気味悪く蠢(うごめ)きだす。

 同じく脳内シーンで、画面奥のベッドに腰かけている淳美を向こう側にロングでとらえ、こちら側に広がる薄暗い部屋いちめんに黒くねっとりとした水が、彼女の踝(くるぶし)のあたりまで床上浸水しているという、美しくも不気味な縦構図の場面(美術担当の清水剛がうっすらと墨汁で染めたという、その粘りつくような質感のある黒い水は、<水>を執拗に描いたアンドレイ・タルコフスキーの映画や、「3・11」の津波が引いたあとのニュース映像を想わせる)。

 あるいは、やはり脳内の、しかも15年前の飛古根島という離島を舞台にする回想シーンで描かれる、入江の危険水域を示す細長い旗竿を、カメラが画面奥にとらえるショットの、なんという鮮明さ。その竿に括り付けられた三角形の小さな旗の赤色が、波打つ青緑色の海面と鮮やかなコントラストをなす(物語的には、その危険水域での或る少年の溺死は、淳美と浩市が封印した過去である)。

 そして<縦構図>の極めつけは、脳内シーンにおける、意識の限界の向こうに濃い霧でへだてられた無意識の領域が広がっているという(!)、いわば意識下の世界を<手前=意識と奥=無意識>として空間化した、驚くべき立体的な画面造形だ。

*いまひとつ、蚊帳(かや)のようにも見える、半透明の薄絹の几帳(きちょう:和室の間仕切りの一種)の向こうを、ゾンビ/幽霊たちがゆっくりと歩いていく脳内の廃屋のシーンでも、当然ながら、黒沢お得意の、カット割りの少ない長回しの<縦構図>が冴えわたる。ここでの几帳は、半透明のカーテンと同様の効果をあげているが、もとより、手前と向こうをへだてる<半透明のカーテン>は、<廃屋/廃墟>同様、“黒沢印”のひとつだが、黒沢自身、それとカメラの長回しとの関わりについて、こう語っている。

――「半透明なカーテンは、一つの情景があって、カーテンの向こう側にまた何かがあるという状態を作ることができる小道具です。カットを分ければ二つの世界になるわけですが、こっち側は見せたくて、向こうはあまり見せたくないけれども、そういう二つの空間の力関係をワンカットで撮ろうとすると、必然的にあいだに半透明なものを置くということになります」(『黒沢清の映画術』(黒沢清、新潮社、2006)。実作者ならではの興味深い言葉だ。

*また、この廃屋シーンでも、スモークが焚かれて幻想的な雰囲気が濃密に漂い、幽霊/ゾンビが登場し、しかもそれが長回しで撮られ、あまつさえ、この少しあとの場面では<船/小さな貨物船>が登場する……となれば、この一連の場面は、溝口健二の水墨画的幽霊映画の名作、『雨月物語』(1953)を連想させずにはおかない(蓮實重彦氏が指摘したように、いくつかの主要な溝口作品では、決定的な場面で<船>が登場する。また言うまでもなく、カメラの長回しも“溝口印”のひとつだ)。

*黒沢清は、『DOORIII』、『廃校綺談』(「学校の怪談f」第3話、1997)、『回路』、『叫』などの傑作において、<幽霊>をどう描くかに強いこだわりを示しつつ、そのつど独創的なゴーストを映像化して観客を驚愕させた。そして『リアル』の幽霊/ゾンビもまた、これまでの黒沢作品の幽霊とはまったく異なる斬新な視覚効果が施されている。

 それは、センシングの副作用の結果、幻覚として現われる「内面を欠いたフィロソフィカル・ゾンビ」だが、しばしば、ボワボワと動く、ぼやけた薄い膜がかかった無表情な顔で出現したり、フリーズしたような不動の姿勢で登場したりする。

 なお、『叫』以前の黒沢作品の幽霊は、モンスターとは違い、人を暴力で攻撃することなく、その場にじっと立っていたり、ゆっくりと移動するだけだった。が、『叫』では、赤い服の女の幽霊・葉月里緒奈は、かつて自分を殺した男に対して恨みを晴らそうとする古典的=心理的存在であった。

 いっぽう、『リアル』のフィロソフィカル・ゾンビは、ビジュアルこそ斬新だが、内面を欠いている点では、『叫』以前の黒沢的幽霊を踏襲しているといえるだろう。ただし、前述の物語の鍵を握る少年は、『叫』の葉月里緒奈のように怨念を抱いた異界の存在として、淳美と浩市をおびやかす幽霊として出現する。そして、少年の化身である首長竜は、二人を恨んで暴れまわるモンスターとして、画面を席巻する(黒沢作品における<子ども>は、彼自身言うように、「可愛らしさ」とは無縁の、大人たちとのコミュニケーションを欠いた不気味な存在であることが多い<前掲『黒沢清の映画術』>。

*フロイトの唱えた<不気味なもの>を応用して言えば、幽霊の不気味さとは、自分が親密だった者、あるいはよく見知っていた者が、なんらかの理由でいったん自分の前から姿を消し、しかるのちに、そっくりなようでいて微妙に異なる姿で再登場したときに感じられる、その違和の感情にある。

 とするなら、『リアル』では、フィロソフィカル・ゾンビはもちろんのこと、センシングによって、自らも睡眠状態になって昏睡している相手と脳内で“再会”する主人公たちの眼には、互いが多かれ少なかれ幽霊性を身におびた不気味な存在に見えているはずだ(と、とりあえず、ここでは書いておこう)。

 もっとも、身もふたもない言い方をすれば、スクリーンに現われる人間たちは、例外なく生身の身体を欠いた、<映像>という幽霊的な存在なのだが……。

*前述のように、<廃墟>的ながらんとした空間も“黒沢印”のひとつだが、『リアル』では、それはくだんの半透明の几帳が部屋を仕切っている廃屋、そしてリゾート開発計画が潰(つい)えて広大な廃墟と化した飛古根島の瓦礫の山として映像化されている(八丈島でロケされたという、無人地帯化した飛古根島の光景には、明らかに「3・11」以後のフクシマが間接的に映り込んでいる)。

 さらに、主人公が黒煙をあげて崩壊していく都市の遠景を眺める、という黙示録的映像も『カリスマ』(1999)などに見られた黒沢好みのイメージだが、『リアル』でも、浩市が窓ごしに眺める街景が、揺らめきながら立ちのぼる、無数の細かい陽炎のようなS字状の模様に覆われながら、ゆっくりと溶け崩れていく幻想シーンの手の込んだビジュアルが凄い。

 なお黒沢は、『カリスマ』や『回路』の、遠くで町が崩壊しているという発想は、トビー・フーパー『スポンティニアス・コンバッション』(1989)からきている、と述べている。すなわち、水爆実験の影響で怒りを抱くと自然発火を起こしてしまう身体に生まれついた男が、怒りを増大させていくうちに、無意識の働きで建設中の原発をメルトダウンさせてしまう、という『スポンティニアス~』の一場面――小さな場所で戦っているうちに、全世界が崩壊しつつある状況が窓外に見える、という場面からの発想である、と(前掲『黒沢清の映画術』)。

 とすれば、『リアル』における都市崩落の遠景も、その着想源は『スポンティニアス~』だということになる。

*『リアル』の最大の見せ場のひとつは、

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