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「傑作」という言葉さえ無力化する、前人未到の“脳内ラブストーリー”――黒沢清『リアル~完全なる首長竜の日~』(最終回)  独占取材!――黒沢清監督、本作および自身の映画術を語る

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回は『リアル~完全なる首長竜の日~』をめぐる黒沢清監督の談話を一挙掲載する。キャスティングや映画祭についての興味深い発言、さらには、“黒沢原理主義”的なディープな映画論の一端を開陳していただいた。

主演二人のキャスティングについて

 若い人気のある男女で行きたい、というのは、すでに企画段階で決まっていました。とはいえ、どなたに出演していただけるかは、先方すなわち俳優の事務所次第であり、また俳優本人の承諾があってのことです。が、綾瀬はるかさんは、脚本作成段階以前の、かなり早い段階で決まりました。

黒沢清監督=撮影・岡田尚文黒沢清監督=撮影・岡田尚文
 男優が佐藤健さんに決まったのは、あれこれ紆余曲折があって、少し遅れました。20代で人気のある男優というと、かなり数が限られていて、そうはいないのですが、佐藤健さんの名前は僕からも出し、快諾していただきました。

 まあ、たまたまスケジュールが空いていたという好運もあったのですが、もちろん綾瀬さんも大河ドラマに入る前でした。

 ともあれ、いろんな人たちの思惑が重なって、ある偶然もあって、バタバタと決まるというのが、本作に限らず、日本映画のキャスティングの現状です。

黒沢清にとって<脚本>とは

 共同脚本の田中幸子は、僕がよく知っていて信頼できるシナリオライターで、『トウキョウソナタ』でも一緒に書きましたが、僕が今回の企画に参加した時点で、すでに田中幸子が本作の大まかなプロットを書いていました。乾緑郎の原作をベースして脚色していたわけで、その段階で僕は本作の話をいただいたのです。その後、田中幸子の書いたプロットについて、さまざまな人が意見を出し合いました。

 面白かったのは、プロデューサーが原作をこう変えたいと提案したのですが、僕は最初、そんなふうに変えていいのかと驚きました。が、変えてまったくOKということで、いろいろな要素を取り入れましたが、最終的には僕一人でぜんぶ書きました。したがって、他人の書いたことを僕が無理やり受け入れてやった、ということでは全くありません。ただし独裁者として最終的に脚本を仕上げた、というより、僕は最終的な意見のまとめ役、ないしは調整役でした。

 そして、僕としては監督するために脚本を書いているのであって、脚本作成と監督の仕事はまったく別ものです。僕にとって脚本は、映画において、より重要な撮影や演出という監督の作業の、いわば前段階でしかないのです。脚本のト書きにも、カメラ位置の指示など、どう撮るかということは一切書きません。

 もちろん、脚本は映画にとって非常に大切なものです。しかし、それはあくまで、監督が撮影する以前の材料であると思います。

 それと関連しますが、映画にとって脚本とは何か、ではなく、映画にとって<脚本家>とは何か、という問題はとても難しいです。僕は多くの脚本家に嫌われているかもしれない(笑)

「過去」の描写は映画にとって難関である

 もうひとつ、日本映画における脚本以前の問題として、<原作の映画化>の企画が多い、という困った傾向があります。これはどう見ても映画化しにくいだろう、という小説の映画化が企画されることが、しばしばです。で、あまりマメに読んではいないのですが、最近の小説って「過去」の話ばかりのような気がします。「過去」って、映画の題材には非常に不向きなのですね。

 また、それで言えば、映画に最も適していないのが、推理ドラマだと思います。推理ドラマでは、一番の見せ場は探偵なり刑事なりが、容疑者の前で実はおまえはこんなことをしただろう、と真相を明かすわけですが、そこで明かされることはすべて「過去」です。こうした「過去」は、最も映画の見せ場にしづらいことではないか。映画にとっての理想は、出来事をつねに現在形で語ることです。

 したがって、『リアル』で一番苦労したのが、

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