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スクリューボール・コメディの大傑作、『パームビーチ・ストーリー』がやってくる!(下)――登場人物のクレイジーさと洒脱さ、スクリューボール・コメディとフィルム・ノワールの共通点など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『パームビーチ・ストーリー』における狂騒とエレガンスの共存は、たとえば“うずら撃ちクラブ”の老人が列車内で猟銃をぶっぱなす物騒なシーンにも、端的に表れている。――最初は冗談半分に銃を構え、パンパンとか口で言いながら射撃の真似をしていた二人のメンバーが、やがて黒人のウェイターにクラッカーを投げさせて、それを標的にして実弾で“クレー射撃”を始めてしまうのだ(車窓が粉々に砕け散っても、二人はいっこうに射撃を止めない)。

 この場面は、ヘタすれば“やりすぎ”になるところだが、けっしてそうはならないばかりか、アナーキーな痛快さが弾け飛ぶ。その最大の理由は、スタージェスが暴走する人物たちの心理的な動機をほとんど描かずに、もっぱらエスカレートする行為/アクションのみを撮るからだ。もちろん、彼らとてどんどん気持が大きくなって遂に発砲に及ぶのだと、われわれは納得しかける。

 が、その場面は、そうわれわれが納得するよりずっと早く、われわれの眼前をスピーディーに走り抜ける。つまりこの場面は、ハチャメチャでありながら、ハイテンポな快走ゆえに、じつにスマートで洒脱なのだ(ちなみに“うずら撃ちクラブ”には、ヒッチコック、ホッチキス、マンキーウィー(『裸足の伯爵夫人』などの名作を撮った、J・L・マンキーウィッツのもじり)、といった名前のメンバーがいる)。

 そして、こうした人物たちの、考える前に喋り行動するかのような<あっけらかん>とした感じは、ヒロインのジェリー/クローデット・コルベールや他の人物の、文字どおり“スクリューボール” (変人的)な言動にも顕著である。

 つまるところ、スクリューボール・コメディの登場人物たちは、心理的・メロドラマ的存在というより、機械のように喋り行動する、すぐれて活劇的存在なのだ。

 ただし、主人公夫婦を演じる二人の俳優に関して言えば、彼らは活劇的存在でありつつ、行動やセリフによって喜怒哀楽を過不足なく表現する、なんともアクロバティックな演技を見せるプレイヤーである。またそれゆえ、観客はジェリーとトムに普通に感情移入しうるのだ(行動的で活発、かつ機転の利くスクリューボールなジェリーは、はすっぱ女ではなく根は純情)。

 また、それで言えば、本作に限らずスクリューボール・コメディでは、悪人や変質者が登場しない。登場人物たちは変人・奇人であっても、常識と非常識の、分別と無分別のバランスをうまく(あるいは、かろうじて)とっている。ほとんどの人物はさばさばしていて、粘着質なキャラはめったに出てこない。これまた、このジャンルにおいては、クレイジーさと洒脱さとが絶妙に混交している、大きな理由のひとつだろう。

 カメラワークの点で注目すべきは、本作に限らず、スクリューボール・コメディにおける二人の人物の会話シーンでは、ハリウッド古典期に確立された<切り返し>、すなわち二人の顔のアップを交互に45度の角度でうつす手法が、ほとんど使われないことだ。カットは割られるにせよ、二人の人物は必ずと言っていいほど、同一フレームの中でとらえられ、早口のセリフを交わす。

 これはおそらく、メロドラマなどで多用された顔のアップの<切り返し>が、スクリューボール・コメディの高速度には不向きだからだ(顔のアップの<切り返し>は、メロドラマ的な情感の高まりを表すには効果的だが、疾走感や活劇感や滑稽感を減殺してしまう)。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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