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ミゲル・ゴメス監督の『熱波』――ポルトガル映画の最前線

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『熱波』(原題「タブー」)はポルトガル映画界の俊英ミゲル・ゴメス監督(1972年~)が、モノクロ映像で入念に撮り上げた良質なメロドラマだ。プロット的には、現在のポルトガルを舞台にする第1部「楽園の喪失」と、ポルトガルが植民地として領有していた1960年代のアフリカのどこかを舞台にする、第2部「楽園」からなる、2部構成の作品である。

 『熱波』の、いわば芯であるメロドラマ的情熱恋愛が描かれるのは、第2部「楽園」においてだ。したがってプロットの順序とは逆に、まずは第2部の物語を要約しよう。

<ヒロインのアウロラ(アナ・モレイラ)の父親は、アフリカで起業しようとポルトガルを出てタブー山麓にやってきたが、脳卒中に倒れた。母親はアウロラを出産直後、他界していた。一人残されたアウロラは大学の卒業パーティで夫と出会い結婚、何不自由ない生活を送っていた。が、アウロラはある日、流れ者ベントゥーラ(カルロト・コッタ)と出会い、メロドラマチックな“禁断の恋”に落ちる……>

 ミゲル・ゴメスによれば、アフリカの植民地を唯一領有していた1960年代のポルトガルには、第2部で描かれるメロドラマチックな情熱恋愛に象徴されるような、ある種の熱狂、ないしは熱気があふれていたという。

 ゴメスはこう語る――「[第2部で描かれる]熱狂は、ポルトガルの歴史の60年代に刻まれたものでもあるのです。ポルトガルだけが60年代まで植民地を持ち、内乱が起こり、70年代にようやく植民地を解放した。ある種の狂気が映画のなかにも存在する。それはポルトガルの政治の狂気に由来するのです」(パンフレット)

 ゴメスはここで、60年代の政治的熱狂が情熱恋愛的風土を生んだとは明言していない。「楽園」と題された第2部では、植民地領有による国家的繁栄および内乱などの「政治的熱狂」ではなく、あくまで人妻と流れ者の情熱恋愛が描かれる。それゆえ、第2部で描かれるメロドラマは、国家的活力や政治的熱気のメタファー(隠喩)として読むこともできよう。

 他方、第1部「楽園の喪失」は、2008年からの深刻な経済財政危機が続く、文字どおりの“失楽園状況”にある現在のポルトガルの首都、リスボンで展開される。

<80代の気まぐれな老女となったアウロラ(ラウラ・ソヴェラル)は、抗うつ剤の後遺症を持ち、カジノに入り浸り、無口な黒人のメイド、サンタ(イザベル・カルドーゾ)が自分にヴードゥー教の呪いをかけていると疑っている。そんなある日、病に倒れたアウロラは、隣人の中年女性ピラール(テレーザ・マドルーガ)とサンタに、「消息不明のベントゥーラという男を探してほしい」と頼む。ピラールとサンタはベントゥーラ(エンリケ・エスピリト・サント)を探し出すが、彼はすでに正気を失っていた。だがベントゥーラは、ポルトガル植民地戦争が始まって間もない50年前に、彼がアウロラと交わしたある約束について語り始める……>

 このように、第1部における年老いて衰弱したふたりの男女は、第2部でメロドラマチックな情熱恋愛に身を焦がした男女とは別人のようだ(事実、別の役者が演じているのだが)。この若さと老いの、あるいは光と影の対比――ポルトガルの興亡と二重写しにされたかのような――を、ミゲル・ゴメスはていねいで慎重な手つきで映像化している。そうした、現在から過去へと遡及(そきゅう)していく上質なモノクロ映像は、ぜひともスクリーンで見るべきである。

 なおゴメスは第2部で、16ミリの荒い映像と、サイレント+ナレーション形式を用い、過去の古典映画へのオマージュを捧げてはいるが、“いかにも狙った”風のノスタルジックな感じが払拭されている点に、この映画作家の賢明さがうかがえる。

 そして、『熱波』で最も強烈な印象を残すのが、第2部の若きアウロラとベントゥーラの性交場面だ。

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