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つかこうへいさまが死んで3年もたってしまった

矢部万紀子 コラムニスト

 つかこうへいさまが死んで3年。7月末、静かな静かな「ストリッパー物語」を東京芸術劇場で観た。アングラ演劇の名作をいまに甦らせるという企画で、主演はリリー・フランキー。演出した三浦大輔氏が生まれたのは、つかさまが「ストリッパー物語」を初めてVAN99ホールで上演した1975年だという。

 私がつかこうへいという人を「つかさま」と呼ぶことにしたのは、その5年後にあたる1980年。紀伊国屋ホールで「熱海殺人事件」を観てからだ。小さな机と椅子だけの舞台。暗転など一度もなく、最後の台詞まで突っ走る。熱くて濃くて、何より自由だった。世間の約束事や常識など無関係に自信たっぷりだった。圧倒されて、入信した。

 以来、全部の作品を見るべく努力した。電話でチケットを取るしかない時代。朝から紀伊国屋ホールに電話する。午後になってやっとつながる。その繰り返し。家に来たばかりのプッシュホン電話の「リダイヤル」機能が相棒だった。

 『つかへい腹黒日記』を愛読し、「小石川の下駄屋の娘」がよく出てきたので、文京区の小石川商店街を訪ね、下駄屋を見つけ、「芝居をしている娘さんはいますか」と尋ねた。こういうことを信心という。

演出中のつかこうへいさん=1993年、シアターΧ劇場提供拡大演出中のつかこうへいさん=1993年、シアターΧ劇場提供
 私の信心が足りなかったので、1982年、つかさまは劇団を解散してしまった。大学4年だった。翌年、朝日新聞に入社した。その頃つかさまは、テレビや映画や小説の世界にいたが1989年、芝居に復帰した。

 創刊したばかりのアエラの記者をしていた。「復活つかこうへい」を表紙に登場させてと大騒ぎし、実現させた。

 撮影当日のことは、一生忘れないだろう。こちらが名乗ると、つかさまは知り合いの記者の名を挙げ、その人間は来ないのか、と尋ねた。学生の頃から芝居を拝見していたので、ぜひとも担当したく伺った、と答えた。

 すると、「そうかー、俺の芝居はインテリが観てるからな。おまえ、早稲田か東大か?」と言われたので、出身大学を正直に申告すると、次の瞬間、「おまえー、よく朝日、受かったなー」と言われた。今で言う「つっこみ」を入れられたうれしさに、母校に感謝した。つかさまの死後、いろいろな人が「つか流・人たらしエピソード」を語っていて、ああ、あれもそうだったんだと気づいた。

 「我が青春のつかこうへい」の一節、ご清聴、どうもありがとうございました。

 と、ここは風間杜夫さんに言ってもらいたい台詞でまとめておいたところで、東京芸術劇場に話を戻す。芝居の出来は置いておく。私はずっと信者だから、これからもつか芝居がかかれば、足を延ばす。そして当然、パンフレットも買う。「ストリッパー物語」は600円だった。

 その2週間ほど前、シアターコクーンで「盲導犬」を観た。1973年、唐十郎が蜷川幸雄の依頼で書き下ろした作品を40年ぶりに上演する、という企画だった。パンフレットは1500円だった。中で、みんなが唐十郎をほめていた。

 野田秀樹の寄せた文章には、「あの当時、唐十郎の周りに蠢いていたドロップアウト的もの」とタイトルがつけられ、「唐十郎を見なかった後悔」を書いていた。いわく、蜷川も寺山修司も別役実もピーター・ブルックも文学座も俳優座も民芸も見た、白い顔をした人たちの踊りも見た、でも唐だけは見なかった、と。

 その巧みな文章を読み、私はひとりで不機嫌になった。つかさまがいないじゃないか。

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筆者

矢部万紀子

矢部万紀子(やべ・まきこ) コラムニスト

1961年生まれ。83年、朝日新聞社に入社。宇都宮支局、学芸部を経て、週刊誌「アエラ」の創刊メンバーに。その後、経済部、「週刊朝日」などで記者をし、「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理、書籍編集部長などをつとめる。「週刊朝日」時代に担当したコラムが松本人志著『遺書』『松本』となり、ミリオンセラーになる。2011年4月、いきいき株式会社(現「株式会社ハルメク」)に入社、同年6月から2017年7月まで、50代からの女性のための月刊生活情報誌「いきいき」(現「ハルメク」)編集長をつとめた後、退社、フリーランスに。著書に『美智子さまという奇跡』(幻冬舎新書)、『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』(ちくま新書)。最新刊に『雅子さまの笑顔――生きづらさを超えて』(幻冬舎新書)

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