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電凸を無許可でニコ生中継しても許されるのか――連続討議「ソーシャルメディア社会における情報流通と制度設計」から(3)

情報ネットワーク法学会

 「電凸(でんとつ)をニコニコ生放送で中継してもいいのか」、「情報発信力に応じて権利を制限すべきだ」。「誰もがジャーナリスト」時代を迎えて、新たに浮き彫りになってきた課題や論点について、各討議メンバーから、常識にとらわれない問題意識が発表された。(構成・新志有裕)

亀松太郎氏:誰でも「ネット中継」時代の功罪

 僕は2012年12月までニコニコ動画に所属して、ニュース関係の仕事をやっていました。その前はJ-CASTニュースで仕事をしていて、社会に出た最初は朝日で新聞記者をしていました。いろいろな媒体を移りながら、ニュースの仕事をやっています。前職がニコニコ動画で、特に報道・言論に関する生放送をやっていましたので、その経験を生かして、今回の問題提起をします。テーマは「誰でも『ネット生中継』の時代の功罪」です。

亀松太郎氏亀松太郎氏
 ジャーナリストというと、もともとはペンで書くという方法でしたが、今は個人がハンディなビデオカメラを使って動画を流すようになりました。さらに、技術が進んだことで、誰でも現場から生中継ができる時代になっています。

 ニコニコ動画では、生中継をやる人を「生主」(なまぬし)といいます。僕が持っているノートパソコンにもウェブカメラがついていて、WiMAXが内蔵されていますから、ここで映像を撮影して、コンピューターがエンコードして、それをインターネットで流すということができてしまいます。

 そんなシステムを使って、実際に町を歩きながら生中継している人が時々います。手間がかかるので、今やっているのは一部の人に限られますが、Google Glassをみんながかけて、それが簡単にネットにつながるのであれば、誰でも生中継できるようになってしまいます。

 今まで、ネットでは、文字で表現するのが手っ取り早い手法でしたが、Google Glassのような身につけるデバイスにカメラがついていたら、ボタン1つで生中継できるので、文字で伝えるよりも映像で伝えたほうが簡単になります。そうなると、文字と映像の立場が逆転する可能性があります。誰でも生中継できる時代がすぐそこまできていて、もし実現したら、色々な問題が起きるかもしれません。

 問題点として考えられるものをいくつか挙げていくと、分かりやすいのがプライバシーの問題です。例えば、大学のキャンパスをGoogle Glassで撮影しながら歩いたら、かわいい女子学生を見ているのも全部ダダ漏れになります。生中継されてしまったその女子学生のプライバシーはどうなってしまうでしょうか。

 一方で、ニコ生(ニコニコ生放送)では、生中継する側の人は匿名であることが多い。「生中継される側」はプライバシーがさらされることになりますが、「生中継する側」は匿名の影に隠れているという非対称性が生じるわけです。そこで摩擦が起きる。最近も東京ディズニーランドで、覆面をした「生主」が生中継して警備員に注意されるという話がありました。この「生主」はネット上では有名な人物ですが、匿名でした。

 また、ニコ生では「電凸の生中継」をするというのもあります。例えば、2012年の大津市のいじめ自殺事件のとき、教育委員会や警察に電話で突撃して、その様子を生中継してしまう。電話を受けている「向こう側の人」は、電話の内容がネットで中継されているとは知らずに話をすることになります。そういうことが現に起きているし、これから広がっていく兆しがあるので、ここではネット生中継をめぐるジャーナリズム性とか信頼性とか、プライバシーについて、考えてみたいと思います。

藤代裕之氏:「誰もがジャーナリスト」の権利と責任とは

 私は、4月から法政大学社会学部メディア社会学科で、研究と教育を進める事になりました。ソーシャルメディア時代のジャーナリズムやメディアのあり方について考えており、「ジャーナリストの権利と責任」について考えてみたいと思います。前提には「ソーシャルメディアの登場で誰もがジャーナリストになる」という状況があります。これは、2005年ぐらいから私自身が指摘し続けてきたことでもあります。

藤代裕之氏藤代裕之氏
 個人による情報発信のライフログ化が進み、データが揃うようになり、まさに総ジャーナリスト化が進んできました。

 ジャーナリストの定義問題は重要で、議論のあるところではありますが、ここでは広義の記録者としてとらえ、マスメディアの記者に限らず、一般のブロガーやツイッター利用者も含めることにします。その上で、私は、それぞれの「発信力」に応じて、権利と責任を規定すべきなのではないかという考えです。

 1つ目は、発信者の「権利」について。インターネットでの「炎上」と呼ばれる事件では、別のプラットフォームに存在している情報をユーザーが統合するということが起きています。(基調発表の)木村さんの話はプラットフォーム内、プラットフォーム間連携の話でしたが、ここにユーザーが関わることで、匿名であってもそれが誰なのか、写真や経歴といったプライバシーが暴かれるのです。例えば、匿名アカウントのTwitterの発言が問題となり、Facebookやブログ、EC(電子商取引)サイトなど他のプラットフォームの情報を組み合わせて、その人物を浮かび上がらせるといったことです。

 このような行為を行う権利を「情報統合権」と定義します。ばらばらにある情報をまとめてブログで発信したり、wiki、togetterやnaverまとめ、といったキュレーションサービスを利用することを、発信力に応じて制限するということです。もうひとつの情報アクセス権は、記者クラブや記者会見への参加に関してです。(市民による情報発信の手段を保障する)パブリック・アクセスに関しても検討が必要です。

 2つ目は、発信者の「責任」です。これは発信力に応じた責任範囲の決定と免責、罰則についてです。誰もが情報発信できる状態があるにもかかわらず、責任範囲の決定が不十分です。ソーシャルメディアの影響力が増すにつれて、名誉毀損やデマなどの課題も指摘されるようになってきていますが、プロバイダ責任制限法のように免責条項がありません。どのような条件を満たせば免責になるのか検討が必要です。

 3つ目は、発信力をどう計るのか、という問題です。大きな影響力を持つマスメディアとオーディエンスという区分は溶けており、影響力を持つメディアも流動的なので、責任と権限は発信者に対して一律に適用するというわけにはいきません。この発信力をどうスコア化するべきなのか。そして、どう認証すべきなのか。ABCのランクがあるとして、発信力Bであることを誰が、どのように認定するのか。人がするのか、機械がするのか。トラブルが生じれば調停機関も必要になるでしょう。発信力の認定状況について異議申し立てが発生することもあるでしょう。

 これら3つの点から、総ジャーナリスト時代の情報発信者を支える制度について考えてみたいと思います。

一戸信哉氏:ユーザーは自らコントロールできるのか

 藤代さんの議論を引き取って、続きをお話します。情報ネットワーク法学会の関心からすると、木村さんの話に対して、制度をどう対応させるのかという話になります。実際のところ現在どうなっているかというと、ユーザーは自分でコントロールしましょうということで、SNS上では、いろいろな設定ができるようになっています。技術的に極端なところまで考えた木村さんのプレゼンを1だとすると、それを全部否定して、0になるのではなく、その中間あたりで自分のちょうどいいレベルでコントロールするという話になっていて、それをするためには、ユーザーみんなのリテラシーが大事だということになります。

一戸信哉氏(右)
一戸信哉氏(右)
 ところが、私はFacebookの使い方を地方で教えたりする機会がけっこうあるのですが、話してみても、ほとんどの人が分かっていません。藤代さんの情報統合権の話でいうと、Facebookで「嫁バレ」などの現象が起きています。タグを友達につけられて、どこにいたかばれちゃったとか。そういうことがないように、公開範囲やタグを設定しようという話になります。ところが説明を見ても、書いてあることがよく分からない。

 特に、「投稿で自分がタグ付けされた際に、まだ共有されていないユーザーの中で新しく追加したい共有範囲」のような表記です。読んでも意味が分かりません。多分、タグ付けされた時に、別の人が友達をタグ付けするのですが、それを自分のこういう範囲の中でどこまでの範囲まで広げるのかを決めるという意味だと思うのですが、一見してもよく分からないです。やればやるほどみんな分からなくなって、怖いからやらないか、あるいは、面白いからやる、という極端な選択が行われることになります。0なのか1なのかは分かりやすいですが、中間的な選択を一般のユーザーまで含めて、どう保証するのかが大事になると思いました。

伊藤儀雄氏:ソーシャルメディアは「ニュース」を判断できるのか

 私は、ヤフージャパンでヤフーニュース、ヤフートピックスの編集をしています。ヤフージャパンのトップページにあるニュースの13文字見出しや関連リンクなどを、チームで編集しています。私の問題意識は、「ソーシャルメディアはニュースを的確に把握できるのか」です。ソーシャルメディアの登場以前は、ストレートニュース、事実を伝えるニュースは、基本的には新聞社などのメディアから発せられるものしかありませんでした。それが、twitterの普及で誰もが発信できるようになりました。ところが、その変化があまりに急に進んだせいで、ユーザーが慣れていません。ソーシャル発の情報をどう受容するかが、整理されていないのです。

伊藤儀雄氏伊藤儀雄氏
 顕著な事例として、2つの例を挙げます。2つともちょっと角度が違った事例です。1つは、2013年2月に、東京・渋谷駅の近くで、ボヤが発生したときの出来事です。いわゆるホームレスの段ボールハウスが燃えて、ガスコンロなどに火が移って、大きな爆発音のような音が聞こえて、通りがかりのいろんな人がtwitterで写真をアップしたというものです。その中でも、2000~3000リツイートされた写真があって、アプリで画像を加工したことで、渋谷駅が炎上して大火事になっているような感じで伝えられました。

 この画像が、大量に拡散されてしまい、事情がよく分からない人たちは、渋谷駅でテロとか大規模な攻撃があったんじゃないか、と受け止めて、困惑しました。ただ、現実に起きた出来事としては単なるボヤなので、既存のメディアは取材に行かない。情報が出てこないということで、これでなぜニュースにならないのか、情報統制されているんじゃないか、という反応が結構twitterではありました。

 一方で、こないだ松井秀喜氏と長嶋茂雄氏に国民栄誉賞というニュースが出ました。これは、群馬県の県紙である上毛新聞が全国紙を出し抜いて、歴史的なスクープとして4月1日付の朝刊に出したものです。先行したのは1紙だけで、その日の夕刊帯から、全国紙が後追いしました。本当に歴史的なスクープで、後になって、みなさん、「上毛新聞がすごい」ということになりましたが、twitterなどソーシャルメディアのリアルタイム検索では、スクープが出た朝4時から、夕刊が出るまでの段階で、ツイートが何件あったかというと、確認出来た限りで3件しかなかったんです。上毛新聞がウェブに情報を出していないとしても、紙で31万部出ているので、見ている人はたくさんいるはずです。でも、それをツイッターでたったの3件しかつぶやかない。ということで、ネット上ではスクープの意味がほとんどなかったんです。

 そうなると、ソーシャルメディアがあるのに、それを使っている人がニュースをおそらく的確に判断できた状態ではなかったというのがあります。実際に、こうした問題を改善するにはどうしたらいいのかと言うと、ツイートのなかから、デマや不正確な情報を判別するロジックを作るとか、デマを流す人を減点するとか、正確な情報を流した人を加点するなどの仕組みを適用して、判定できたらいいメディアやいい社会ができるのではないかと思います。

五十嵐悠紀氏:ソーシャルメディアやライフログによる世の中の変化

 ほとんど初めましての方が多いのですが、私は筑波大学で研究員をしています。この4月から明治大学の中野キャンパスに新しい学部ができまして、非常勤で週に1回、明治大学にも行っています。お茶の水女子大学でも非常勤で情報倫理という科目を担当していまして、女子学生に情報の発信など情報の取り扱い方について教えています。

五十嵐悠紀氏(左)五十嵐悠紀氏(左)
 今日は、的を射てないかもしれませんが、世の中、色んな技術が発展していくと、世の中はどのように変化するかについて考えてみます。私たちの分野では例えば、今、「ニコニコ超会議2」という大きなイベントがちょうど裏でやっていまして、今日と明日(4月27~28日)は生放送で中継されています。

 でも、現地にいかなくても会議に参加して、twitterで情報を発信することもできます。質疑応答もツイッターでできます。アカデミズムの学会でも、そういう流れが最近は増えています。

 明治の先端メディアサイエンス学科では、講義中にツイッターで情報を発信することを認めていて、対外的にアピールしています。ただ、ほかの大学や明治のほかの学部では、授業中のツイッターは禁止という運用も多いでしょう。twitterの使用全部がだめというのではなくて、匿名アカウントにしなさいという大学もあったりします。

 でも、匿名でもバレるときはバレる。IPアドレスなどを使えば、匿名でつぶやいたからといって、絶対にばれない保証は一切ないです。実名であれ匿名であれ、追跡すれば何らかの方法でたどりつくことができるので、意識した上で発信しないといけないのですが、その危機感が今の若い人たちには足りない気がします。

 若い世代ほど、物心ついたときから既にソーシャルメディアがある状態で育って生活しているので、ソーシャルメディアの利用が当たり前になってしまっています。「私はどこにいる」とか「今なんとか駅の前にいるよ」とか、「どこどこへ旅行に行ってくる」とか、一人暮らしの人がつぶやくと、家が空いているのを発信しているようなもので、位置情報、文字情報、写真情報を発信することへの危機感が足りないようです。こうした大多数のユーザーを、どうやって技術や社会で支えたらいいのかと感じます。

 基調発表された木村さんと似たような分野で研究していますが、私の周りにもライフログの研究をしている人がいます。ライフログでは、写真を何十万枚も撮りためてすべて記録をしておいて、必要な時に引っ張り出すんですね。この人には前に会ったことあるかどうか、といった場面で過去の画像を引っぱり出せます。Google Glassをかけて町中を歩いて、「五十嵐さん、こんにちは」と言われたとき、「この人は誰々」といった説明が出てきて、とっさに判断できるような技術もどんどん研究されています。ジャーナリズムなどの方面にはあまり詳しくないのですが、主にテクノロジーの面から、みなさんと議論していきたいです。

山口浩氏:ソーシャルメディア時代の新しいリスク・コスト分担

 駒沢大学の山口です。私が何をやっているのかというと、金融、契約、情報技術の融合です。何でも入るようにゆるいテーマにしています。これらのテーマをくっつけると面白いことが起きます。経営学の研究者なので、新たな技術が社会に適応していく仕組みを考えています。制度というと、主に公的なものを指すことになりますが、もう少しゆるく考えて、ある仕組みを公権力でやるのか民間、企業の契約でやるのか。技術の進展とともに、これまで私たちの社会がやってきたことを見直す必要があると思います。

山口浩氏山口浩氏
 こうした問題に関しては、何かをやろうとすると、メリットとデメリットがあります。メリットとデメリットはだいたい同じもので、誰かにとってメリットならば誰かにとってデメリットになります。プライバシーを重視することは、誰かの知る権利を制限することになります。

 今回、木村さんの発表やみなさんが問題提起されている問題は、それぞれ面白いテーマですが、横串に通すものがあるといいと思います。それは、リスクとコストです。何かをやろうとするときに、それに伴うリスクを誰がどう負担するか、ということです。

 技術が変わると、リスクとコストも変化するでしょう。その時に、制度の議論から入ると、「人権は……」といった、べき論から入るとらちが明かない。それよりも、リスクはどうなるのか、どう変えたら納得してもらえるのか、ということを考えたいと思います。これは、広い意味でのリスクマネジメントです。

 そして、集合知の話をよくしています。なかなか使えないものがどう使えるようになってくるか。これまではマスメディア的には、発信者にすごく大きな責任を負わせていて、その代わりにコストを払うという感じでした。これまでの発信者は、プロとアマで、お金と責任を基に分けることができましたが、技術の発展でその関係が変わってきます。真ん中の人が出てくるのです。

 その時にあちこちで出てくる言葉で、私の言葉ではないのですが、「馬鹿基準」というのがあります。世の中馬鹿に合わせるということです。そうすると不満に思う人が出てきます。私はこんなに守ってもらわなくてもいいという人が出てきます。つまり、馬鹿を守ることと、馬鹿じゃない人の自由をどう保つのかという問題です。1つの制度で全部を扱うのはやめた方がよいと思っています。私は大丈夫という人と、私を守ってくれという人がいます。それを分ける仕組みを考えるのです。

 そのときに、守るために必要であれば、機械を使うこともあるでしょうし、権利を制限することもあるでしょう。その時に、大人と子供で分けるというのもあるでしょう。だけど、大人でも馬鹿はいて、子どもでも利口な人はいます。別の分け方をしなければいけないかもしれません。口コミマーケティングの問題では、WOMJ(WOMマーケティング協議会)にいて、仕組みのことを考えています。ブロガーの情報発信の責任は何だろうということも、考えています。

生貝直人氏:ネット時代のプレスカウンシル(報道協議会)

 私は、この研究会では、(ネットにおける個人情報保護をめぐる)「忘れられる権利」を深堀りしてみようと考えていたのですが、初回がソーシャル時代のジャーナリズムということで、法制度の観点から見た本流のど真ん中といえる問題を提起したいと考え直して、このテーマにしました。

生貝直人氏生貝直人氏
 
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