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[12]第2章 演劇篇(4)

アメリカナイゼーション

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

テレビ・バラエティの元祖

 「割どん芝居」という言葉がある。舞台中央から左右に開く緞帳の前で演じる小芝居、寸劇のことだが、エノケンは割どん芝居をうまく使った。例えばカーテンに絵を描いた物の前で芝居をする。これによって頻繁に場面転換をすることが容易になり、スピード感のある舞台をつくりだせたのである。

 「島村をはじめレビュー作家の多くが文学青年だったこともあるのだろうが、彼らの書いた作品は、音楽的には主題歌がある他は通常の台詞劇と変わらず、構成的にも内容的にもレビューと呼べないものが多い。通常の台詞劇と明らかに異なるのは、レビュー譲りのテンポの速さで、30分~60分程度の作品で10前後の場面転換がある」(『新興芸術派とレビュー』中野正昭)

 この形式はそのまま現代のテレビドラマの構造と同じである。事件、風俗など時事性をもりこんだ「情報バラエティ」にもつながるもので、カジノ・フォーリーの試みた斬新な舞台は、今のテレビのバラエティ番組の元祖といってもよい。

 カジノからプペ・ダンサントなどをへて新宿ムーラン・ルージュへとつながる「軽演劇」の流れのなかから、戦後のテレビ創成期の番組を担う脚本家、台本作家、プロデューサー、演出家などが育っていったのである――。

庶民の欲求不満にこたえたレビュー

 カジノ・フォーリーが起爆剤となって起こったレビューブームの内容は、「和洋ジャズの合奏」と「エログロ演劇」の2本柱であった。雑誌「文藝春秋」(昭和5年1月)はコラム欄で、浅草の玉木座、帝京座、遊楽館、江川大盛館、江戸館での「諸芸演芸大会」や「日本バラエティ」などに触れ、とりわけ「和洋ジャズ合奏」は近来の傑作であるとする。

 「先ず、幕が開くと、ジャズ・バンドと、三味線バンド(ってのも可笑しいがつまり三味線引きが四五人)ズラッと並んでいて、流行唄や都々逸なんどを賑やかに演奏する。之に連れて、一座の花形歌手(安木節の)が、独唱や踊りを演る。かと思えば、突如芝居がかりの茶番それを引き抜いて、板東流の大立ち廻り、コレたるや、女軍が伴天に猿股のスゴイいでたちで、手に手に、コン棒を持ってヤアヤアとやる、伴奏は例の、剣劇音楽、チャンチャンドンドンと云う勇ましい奴。いろいろと手を代え品を代えて、たっぷり御覧に入れる。一日の労苦を終えた労働者など之を見れば成程タンノウするであろうと肯かれる」

 新奇さを冷やかしつつも、一定の評価をしている。マスメディアのあつかいには賛否両論あったが、ひょっとすると時代の閉塞感を切り開く端緒になるのでは、という期待も生まれつつあった。

震災を契機に変わった大衆心理

 震災前の浅草は、江戸から続く見世物、演し物に加え、大正デモクラシー、モダニズムの波にのった浅草オペラが全盛で、「ペラゴロ」といわれる熱狂的なファンがつめかけた。スターの一人、田谷力三が登場すると、客席から「タヤタヤタヤ」と掛け声がかかり、やがて大合唱になって館内を興奮の坩堝にまきこむのだった。歌手の歌も聞こえなくなるほどの熱狂ぶりで、舞台と観客が一体となって独特の空気をつくりだしていた。人気にひかれて宮沢賢治なども上京した折、見に行っている。

 震災後まもなくオペラ常設館は再建されたが、客の入りは悪かった。震災で家を焼かれ家族や仕事を失った人も多く、オペラどころではなかったのかもしれない。しかし、そればかりではない。震災を契機に受け手であるお客の興味や関心の在りどころが変わってしまったのである。

 天地がひっくりかえるような大災害や戦争は人々の潜在心理に案外深い影を落とすものである。それまで拠って立っていた基盤が崩壊することで、信じていたものが崩れる一方で、命の儚さをあらためて痛感する。動物は命の危機に見舞われると、自らの「遺伝子」を残すためドーパミン等が働きを強める。遺伝子を残すということは命を残すことと同義であり、命の誕生には「性欲」がかかわる。そこに「貧」が加わると、一層性欲が強まる。「貧乏人の子沢山」という言葉には、一面の真理がふくまれているのである。

 震災前はゆったりと流れる時間のなかでのんびり観劇する人も多かったが、震災後はそんな余裕もなくなり、手っ取り早く「果実」を味わいたいという人々が増えていた。

 カジノ・フォーリーがなぜ浅草のファンに受け入れられ一大ブームを引き起こしたのか。

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