2013年09月12日
“カダフィは、「リビアはアラブではない」という姿勢を取るようになりました。リビアはアラブ諸国との外交は続けるが、アイデンティティはアフリカにある、と”
6月に寄せた「アラブの春」に関する原稿のために重松メイの『「アラブの春」の正体』(角川oneテーマ21)を読み返していてこの文章に出会った時、ぼくにはイスラームについての知識も乏しいが、アフリカについては本当に何も知らないなあ、と嘆息した。
そして、いわばアフリカ大陸の北部を東西に辿っていた関心を、南北へと移し、アフリカに関する本を読み始めた。アフリカ諸国の位置関係はもちろん、国名さえも確かでないぼくにとって、それは、自分がいかにアフリカを知らないか、アフリカにしかるべき関心を向けて来なかったかを再確認する作業となった。
だが、今年1月におきたアルジェリア人質事件の報道は、アフリカに対して無知なのは、ぼくだけではないことを知らしめた。10人の日本人が命を落としたこの悲劇が起こった原因を説明する報道、それを問おうとする報道すらが、ほとんど皆無であったからだ。報道は「テロ」への怒りに終始した。
「テロ」が許されるものではないことに、ぼくも全く異論はない。だが、日本人犠牲者がすべて化学プラントに参画していた日揮の関係者であったことを思えば、アルジェリアが、イスラームという東西軸と、資源大陸アフリカという南北軸の交点にあることに言及した報道があって然るべきだ。
すなわち、「テロ」に使用された武器は一連のイスラーム革命から流れたものであり得、その動機はアフリカの資源を簒奪する先進諸国への反感と関わるものではなかったか、という視点がもう少しあってもよかったと思うのだ。
資本主義の発達に不可欠な条件である資源の安定確保を目的に、列強は全世界に植民地を求めた。資源を求めるもの―資源を提供するものという構図は変わらず、即ち支配―従属関係は、脱植民地化の時代を迎えても、持続した。
それは、“資本に始まり採掘のノウハウに至るまで、欧米の石油企業あっての産業である”からだ、と『ルポ 資源大陸アフリカ――暴力が結ぶ貧困と繁栄』(東洋経済新報社)の白戸圭一は言う。
例えば、
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