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歌右衛門襲名を「夢だと思った」中村福助の本心とは?――閣下と呼ばれた五代目、女帝と恐れられた六代目、さて七代目は……

中川右介 編集者、作家

 9月3日、歌舞伎役者・九代目中村福助が七代目中村歌右衛門を襲名するとのニュースが伝わり、その翌日、4日午前に記者会見が行なわれた。その様子は各新聞に出ており、日刊スポーツも伝えている。

七代目中村歌右衛門を襲名する中村福助拡大七代目中村歌右衛門を襲名する中村福助
 この記事のなかに福助当人の言葉として「襲名の話をうかがった時は夢だと思った。6代目の大叔父にあこがれ、目標にしてきただけに、身の引き締まる思いです」とある。

 私はこの発言に違和感を抱いた。歌右衛門とは、「話をうかがって」襲名するものではないし、それを「夢」だなんて言うようでは困るのだ。

 中村歌右衛門の初代は1714年に金沢で生まれ、役者となって上方(関西)で活躍した。初代は江戸にも来て、四代目團十郎と共演したこともある。二代目歌右衛門は初代の弟子、三代目が初代の子で、血統はそこで絶え、四代目は三代目の弟子が継いだ。四代目までは女形ではなく、また上方が拠点で、何年かごとに東京に出稼ぎに行っていた。

 四代目は幕末に亡くなり、その後の五代目をめぐっては、東京と大阪とに二人の候補者がいたが、どちらも継げずに亡くなり、その子ども同士――東京の五代目芝翫(しかん)と大阪の初代鴈治郎とが争うこととなった。それが明治の後半である。

 結局、東京の芝翫が勝ち、五代目歌右衛門となった。五代目は役者の子ではない。幕府の役人の妾腹の子で、父が亡くなった後、四代目歌右衛門の養子の四代目芝翫の養子となり、福助、芝翫を経て、五代目歌右衛門となったのだ。

 彼は美貌の女形で、若いころは絶大な人気があったが、気が強く、権力欲を隠さない人でもあった。贔屓筋に政官財界の大物もついていたので蓄財にも長け、千駄ヶ谷に3000坪の敷地の屋敷を持つまでになる。

【五代目以降の中村歌右衛門家】拡大【五代目以降の中村歌右衛門家】
 五代目が「歌右衛門」という名跡を大阪の初代中村鴈治郎と争った際は政治センスを駆使して勝利した。その襲名披露興行は、ちようど建て替えられたばかりの二代目の歌舞伎座の杮落興行として行なわれた。

 五代目歌右衛門は「歌右衛門」という名跡だけでなく、歌舞伎座の座頭になるべく、これも政治的な駆け引きを繰り返して、実現させた。彼は女形ではあったが、徳川家康などの武将も演じ、劇界では「閣下」と呼ばれていた。

 すべてが自分の思うままになった五代目歌右衛門だったが、白粉に含まれていた鉛による鉛毒で苦しみ、子供のできない身体でもあった。そこで、貰ってきた子を実子として届け出て育てたのが、五代目福助である。

 福助は子供の頃から役者になるべく鍛えられ、彼もまた美貌だったので、大正時代後半から昭和初期にかけて若い女形として人気が出た。だが、福助は結核で33歳にして亡くなってしまう。この福助の子が2011年に83歳で亡くなった七代目芝翫であり、その芝翫の長男が、来年、歌右衛門となる九代目福助という系譜だ。

 では、六代目歌右衛門はどこから来たのか。日本俳優協会などが発表している経歴、家系図などでは、六代目歌右衛門は五代目歌右衛門の次男ということになっている。だが、これは明らかに虚偽である。

 前述のように五代目歌右衛門は子ができない身体だったので、実子とは思えない。この六代目の出生については確定的なことは分からないが、兄とされている五代目福助の子という説と、その五代目福助同様にどこかから貰われてきた子という説とが流布している。

五代目中村歌右衛門拡大五代目中村歌右衛門
 五代目歌右衛門は1940年に74歳で大往生を遂げた。次男・六代目歌右衛門(当時、福助)はまだ23歳、孫の七代目芝翫(当時、児太郎)は12歳。

 五代目歌右衛門は亡くなる直前に、死後、次男と孫との間で争い事にならないよう、遺言を書いた。この二人は戸籍上は叔父甥の関係にあるが、もしかしたら腹違いの兄弟かもしれない関係であり、年齢差が11歳と、お家騒動の条件にぴったりである。

 そこで、六代目は次男が、七代目は孫が襲名せよ、以後もその子が交互に継いでいけという趣旨の遺言を書き雑誌に発表し、その効力を強めた。

 遺言では、歌右衛門家の子は、児太郎、福助、芝翫、歌右衛門という改名コースを歩むようにも記され、とくに福助の名は一日も絶やしてはならないとあった。福助が次の名を襲名するのと同時に次の福助を襲名させよということだ。

 これに従い、今回も、福助が歌右衛門となるのと同時にその長男の児太郎が福助となる。では、「芝翫」はどうなってしまうのか。記者会見での質疑応答では、福助は「芝翫」については、「(弟の)橋之助がいますし」と答えたという。

 話を戻すと、五代目は自分が歌右衛門になるのに苦労したので、次世代が揉めてお家騒動とならないように、手を打っておいたのだ。六代目がとりあえず約束された次男だが、彼もまた美貌だったので、子供のころから女形として育てられた。男と駆け落ちし、新聞に載るなどのスキャンダルもあった。そういう不思議なひとでもある。この次男が六代目を襲名するのは戦後の1951年だった。

 戦争が終わり、劇界では六代目歌右衛門と同世代の役者が次々と親の名を襲名していった。松竹は歌右衛門の襲名披露興行で儲けたいので、早く襲名してくれと言ってきたが、六代目は彼は新しい歌舞伎座ができるまでは襲名しないとがんばり、その望みどおり、1951年に四代目の歌舞伎座が開場すると、その翌月に襲名披露興行をした。

 同世代の他の役者たちは、歌舞伎座が空襲で焼失して存在しない時期に襲名したので、その披露興行は東京劇場など歌舞伎座以外で行なわれた。歌右衛門だけが、それを拒否し、歌舞伎座で襲名したのである。

六代目中村歌右衛門拡大六代目中村歌右衛門
 こうして歌右衛門となった六代目は、父同様に抜群の政治センスを持ち、同世代のなかで誰よりも早く40代にして芸術院会員となったのをはじめ、誰よりも若くして人間国宝となり、以後も文化功労者、文化勲章とあらゆる栄誉を得て、さらに日本俳優協会会長の座に30年にわたり就いていた。

 劇界の人事はすべて「歌右衛門の了解」が必要とされ、さらには歌舞伎座での配役にまでその影響力は及んでいた。

 六代目も美貌の女形だったので、「歌右衛門」という名跡は初代から四代目までと、五代目・六代目とでは別のものとなった。明治の終わりから昭和までの二人の歌右衛門は、「女形のトツプ」、そして「劇界のトップ」という意味の名だったのだ。

 五代目と六代目の歌右衛門は自分の意思で歌右衛門を目指し、その名を勝ち取り、自分の都合のいいタイミングで襲名披露をした。歌舞伎座の建て替え再開場と歌右衛門襲名披露興行とが同時になったのは、歌右衛門が意図したからである。

 六代目歌右衛門は、2001年に亡くなった。五代目の遺言に従えば、次は七代目芝翫が歌右衛門となるはずだった。しかし、芝翫は

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筆者

中川右介

中川右介(なかがわ・ゆうすけ) 編集者、作家

1960年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2014年まで出版社「アルファベータ」代表取締役として、専門誌「クラシックジャーナル」、音楽書、人文書を編集・発行。そのかたわら、クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲などについて、膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、歴史に新しい光を当てる独自のスタイルで執筆。著書は『カラヤンとフルトヴェングラー』『十一代目團十郎と六代目歌右衛門――悲劇の「神」と孤高の「女帝」』『月9――101のラブストーリー』(いずれも幻冬舎新書)、『山口百恵――赤と青とイミテイション・ゴールドと』『松田聖子と中森明菜――一九八〇年代の革命』(ともに朝日文庫)、『戦争交響楽――音楽家たちの第二次世界大戦』『SMAPと平成』(ともに朝日新書)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『角川映画 1976-1986(増補版) 』(角川文庫)、『怖いクラシック』(NHK出版新書)など50点を超える。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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