浅羽通明
2013年09月21日
まずひとつ、謎かけをいたしましょう。
映画『風立ちぬ』のラストシーンで、主人公堀越二郎がイタリア人カプローニ伯爵とふたりで草原に立っています。
堀越二郎は、ゼロ戦を設計した実在の航空エンジニアをモデルとした人物。カプローニ伯爵のモデルは、イタリアの飛行機設計者で飛行機会社のオーナーだった人。
伯爵は、堀越二郎の憧れの存在で、少年時代から折あるごとに夢に現れ、けっこう深い会話をします。このラストシーンも、夢の中なのです。
そのひとつ前の夢の中で、伯爵は、「創造的人生は10年だ」と堀越を励まします。設計者としての絶頂期という意味でしょう。それを踏まえて、最後の夢で、「きみの10年は充実していたか」と伯爵は問います。
「はい。終わりはずたずたでしたが」と肩を落とす堀越。草原には、ゼロ戦の残骸があります。日本の敗戦直後、堀越が見た夢なのです。
そこで、カプローニ伯爵はうなずくようにこういうのです。
「国を滅ぼしたんだからなあ」と。
私はここで「えっ?」と思いました。ごく、ささいなところです。しかし、ここでひっかかった方はほかにもいらっしゃるのではありませんか。
だってこれでは、堀越二郎とゼロ戦が国を滅ぼしたみたいです。おかしくないですか。
無謀な戦争を始めた政治家や軍部が国を滅ぼしたといわれるのならばわかる。作戦や用兵を誤った参謀や司令官も、国を滅ぼしたといわれてもしかたないでしょう。あるいは、期待されたエンジニアが鋭意開発した新兵器が役立たずで、敗戦の原因となったのなら、一応わかります。
しかし、堀越二郎が開発したゼロ戦は、日本の誇る優秀な戦闘機でしょう。ゼロ戦が国を滅ぼしたとはどうしても思えません。優秀な戦闘機が開発されたから、軍部は自己過信して、開戦へ突き進んでしまったという理屈もあるかもしれませんが、ちょっと詭弁が過ぎますよね。
ここは、「国が滅んでしまったのだからな」と、自分が関わらないところで負けた戦争へ加担してしまった堀越二郎へ理解を示すのが筋ではないでしょうか。
今回の私のお話は、このカプローニ発言をあっと驚く方向から新解釈して、堀越二郎がなぜ「国を滅ぼしたんだからな」といわれなくてはならなかったのかを説明しようとするものです。無論、これこそが宮崎駿監督の真意だなどと主張するつもりはございません。完全に珍説奇説与太話の類であるのは承知のうえ。
しかし、奇説という補助線から見えてくるものも意外とあるかもしれないとかすかな希望を抱いて、お話ししてみたく存じます。さて、この『風立ちぬ』というお話ですが、私は、「戦闘機」と「爆撃機」の対立を大きな軸とする物語として観ました。
順を追ってご説明しますね。
開幕直後、まだ小学校高学年らしい堀越少年は、日本の田園地帯の実家でお昼寝をし、夢を見ます。夢のなかで少年は、鳥みたいな架空の手製一人乗り飛行機を駆って、生まれ育った村の上空を自在に飛び回ります。宮崎監督お得意の飛翔感、浮遊観そしてスピード感……。
しかしそのうち、上空を覆う雲のさらに上へ、巨大な飛行船が姿を現します。監督の絵コンテにはツェッペリンとコメントがありますが、夢ですから、不気味なひれみたいなものをいっぱい生やした気持ち悪い飛行体です。しかも、飛行船の下には、無数の爆弾、目や口をつけた生きた虫みたいな爆弾が、つりさげられたような感じで一緒に飛行しています。少年の鳥形飛行機は、たちまちその一つとぶつかり、こなごなに壊れて墜落してゆきます。
伯爵は彼自ら開発した飛行機の大編隊が、地平線の彼方へ飛んでゆくのを見送ります。そして、現れた日本の少年堀越二郎を認めると語り出します。
「あの半分ももどって来まい。敵の街を焼きにゆくのだ」と。
大編隊は、カプローニ社が機を納めていたイタリア軍の爆撃機だったのです。よく見るとどの機も多くの爆弾を吊り下げている。
これを聞いた堀越二郎少年は、カプローニ伯爵をリスペクトしながらも、愕然とした表情で編隊機を見上げるのです。
どちらのエピソードでも、爆弾を擁した爆撃機の側には、堀越二郎はいないのです。
堀越二郎とカプローニ伯爵が次に夢で会うのは、関東大震災直後の混乱のなか。そんな非常時でも、カプローニの写真を見つけただけで、二郎は飛行機の夢想のなかへ入ってしまえるのです。この夢では軍用機は出てきません。
その次に、2人が会う夢を見るのは、ヨーロッパの夜汽車に乗っているときです。堀越二郎がドイツのユンカース社へ視察にいった帰路です。また現れた伯爵は、会社の工員の妻や娘たちを満載した大型機を飛ばしてご満悦です。軍へ納品するまえの爆撃機で遊んでいるらしい。巨大な飛行機の感想を聞かれた堀越二郎は、「壮大です」「ローマの建築物のようです」と返します。
否定してはいない。感心してはいる。でも感動とか讃嘆ではないような演出を、このシーンでの堀越二郎の表情を観て感じました。皆さんはいかがでしたか。
「壮大」「ローマ」。深読みするならば、なるほど大したものですが、大味ですねえというニュアンスが漂ってませんかね。そのほうが日本人らしい感想でしょう。
このとき、カプローニ伯爵は、飛行機は殺戮と破壊の道具ともなる呪われた運命にあると、堀越二郎に覚悟を促すようにいいます。そして、空を飛ぶ夢をピラミッドに喩え、ピラミッドのある世界とない世界と「君はどちらを選ぶね」と二郎に迫るのです。自らは、「それでも私はピラミッドのある世界を選んだ」と語りつつ。
堀越二郎はこの問いへ正面から答えません。「ぼくは美しい飛行機を作りたいと思っています」とだけ答えるのです。
これは意味深ですね。飛行機のある世界とない世界だったら、ある世界を当然、二郎は選ぶ。ここまでは伯爵と一致するでしょう。でも、ピラミッドの喩えはどこか承服できなかった。二郎が創造してみたい飛行機は、サバの骨の曲線美で喩えられるがごとき代物だからです。
ピラミッドやローマの建築と通じるような飛行機は、堀越二郎の趣味ではないのです。この相違は、当時の情勢のなかで、単なる趣味の問題では済まなくなってゆきました。
カプローニ伯爵とピラミッド談義をする夢を見るまえ、堀越二郎はドイツでユンカース社の飛行機工場を見学しています。当時最大の旅客機で輸送機のG-38のライセンスを買って、爆撃機に改造しようとする日本軍部の思惑の一環でした。二郎は、それこそピラミッドかローマ建築のようなG-38の威容に圧倒されながら、「翼に展望室がある。爆撃機にするのは惜しいよ」と呟く。そして、G-38より、小型機F13を見つけて、本当はこっちの方が関心があるとばかりに駆け寄るのです。
ユンカース社見学のとき、堀越二郎は本庄季郎とともに行動しています。この映画では、堀越の最大の親友でライバルとして登場する本庄も実在の人物です。
ゼロ戦という戦闘機の設計で知られる堀越二郎と、一式陸攻という爆撃機の本庄季郎。
物語のお話をしているのに、いきなり史実を持ちこむのは反則ですが、宮崎駿監督が半藤一利さんとの対談で語ったところによると、親友としたのはフィクションで、現実には二人の仲は悪かったそうです。戦闘機と爆撃機、水が合わないのでしょうか。
ここで話を突然、思想史や文明史へと大きく広げてみましょう。思想史といっても、軍事思想史です。
堀越二郎が夢で会話するカプローニ伯爵には実在のモデルがおりますが、彼の会社へイタリア軍から監督にきていた将校があった。それがジュリオ・ドゥーエ(1869~1930)。当時、少佐くらいかな。
この人は軍事思想史にその名を刻む大物です。芙蓉書房出版から刊行されている『戦略論大系』という本は、第1期が全7巻ですが、孫子、クラウゼヴィッツ、モルトケ、マハン、リデルハート、毛沢東という大物とともにドゥーエが第6巻に入ってます。1917年に著した「制空」という論文がです。
この人の理論が重要なのは、世界で初めて、これからの戦争では航空機がもっとも重視されるべしと訴え、空軍の独立を主張、制空権、そして戦略爆撃という概念を樹立したからでした。
もっとも重要な戦略爆撃の理論を紹介しましょう。
ドゥーエによれば、これからの戦争は開戦のとば口が切られるやいなや、爆撃機の大編隊がぐわぁーと敵国の首都まで飛んで、おもむろに爆弾の雨を降らせるのだ。そうすれば、首都にいる敵国の元首や重臣、軍部のトップらは、自分の命が風前の灯となり、いやおうもなく降伏するほかあるまい。こうして、戦争は空軍の力によりすぐ終結するだろう。
なんだそれだけかと思われるかもしれない。しかしそれは私たちが、戦争といえばミサイルが飛び、飛行機が爆弾を降らせるのが常識となってから60年以上たった時代の存在だからです。
発表当時、この提言がはらむ革命的意義は絶大でした。
なぜってね、それまでの戦争を考えてみればよい。戦国時代だったら、関が原合戦や川中島。日露戦争の203高地、日本海海戦、奉天会戦。ナポレオンのワーテルロー決戦。みんな人里離れた野っぱらとか海上で軍隊同士が激突しています。あるいは砦を敵軍が包囲して攻めるとか。
ドンパチは、首都から遠い両国の中間あたりで行われるのが普通です。だから、首都にいる政治的リーダー、軍の幹部、文化人などは皆、まず弾が飛んで来ないところにいる。それゆえに、まずおまえらが戦場へ行けよといった反戦論者の訴えが説得力を持つのです。一般民間人も、戦場から遠いところで生活を続けている。兵隊にとられた息子や夫や兄弟の無事を遠くから祈っているわけです。
首都そのものが砲撃されて破壊され、敵軍がなだれ込んでくることもありますが、それはもう最後の最後。完敗です。たいがいそのまえに降伏して戦争は終わる。ナポレオンのロシア侵攻では、モスクワはロシア人により燃やされましたけどね。
こうした常識が、航空機それも爆撃機の登場で根底から覆ったのですよ。
もはや、王宮や大統領府も安全とはいえない。一般市民も死の危険において前線の兵士とまるで違うとはいえない。いきなり、火の雨が頭上から降ってきますから。
ドゥーエ少佐が、カプローニ伯爵の生産工場付きとなったのは第1次大戦時のこと。はじめは偵察など、陸海軍のほんの補助として用いられていた航空機は、じきに機銃掃射や爆弾投下で戦えるようになります。そんな軍用機の黎明のなかで、戦略爆撃理論が発想されたわけです。
イタリアはあんまり戦争が強そうな国ではありませんね。ヘタリアってくらいで(笑)。しかし、航空戦ではかなり先駆的でした。1911年の対トルコ戦争で、トリポリ上空へ飛来した飛行機から手榴弾を放り投げたのが、最初の空爆とされています。第1次大戦でも、カプローニ社の爆撃機が、オーストリー=ハンガリー帝国の都市を空爆しています。映画『風立ちぬ』の堀越二郎の夢で、カプローニ伯爵が、敵の街を燃やしに……と語っているのはこれでしょう。ただし、映画にあるような、街が炎に包まれるごとき戦果は実際には上げられなかったようです。
さて、ドゥーエの「戦略爆撃」はこうした第1次大戦の航空機利用を参考にしながらも、まるで桁のちがう発想でした。
それまでの航空機使用法は爆撃も含めて、基本的に陸で激突し海で大砲を打ち合う局所的な闘い、すなわちバトルへ参加して勝利の手助けをするものでした。敵都市爆撃もそれと大差ないものだった。これらは爆撃であっても、「戦術」爆撃なのです。
対するにドゥーエの「戦略」爆撃はですね、個々の局所的戦闘なんか飛び越えた次元で、戦争そのものの勝敗を一気に決する爆撃なのです。真珠湾攻撃とかミッドウェー海戦、インパール作戦とかに勝利する方法が「戦術」であるのに対して、太平洋戦争とか大東亜戦争をどう勝利に終わらせるかが「戦略」爆撃なのですよ。
ドゥーエは先駆者の不遇を味わいます。陸軍海軍で固まっている軍隊は、新しい空軍の時代が来て今後はそっちが主役だなんて認めたくない。だから降格されたり左遷されたりと、さんざんです。アメリカのドゥーエといわれるビリー・ミッチェルという人も軍法会議にまでかけられています。
ドゥーエの場合、その晩年にムッソリーニがイタリアの権力を握った。ファシストって新しいもの好きですから、ドゥーエ理論に興味を示し、世界でも早く独立空軍を創設します。ドゥーエはその頃、寿命を終えます。幸せな晩年と……、いえるのかなぁ。
しかし、ドゥーエが期待したような、戦争を即終わらせる戦略爆撃はなかなか実施されませんでした。スペイン内乱のとき、ファシストイタリアとナチスドイツが加担したフランコ軍によるゲルニカ爆撃。一般市民をも無差別殺傷した。ピカソの絵で有名ですね。でも犠牲者の数でみたら数百から数千人。軍事的効果もさほどではありません。
日本軍も、渡洋爆撃といって、大陸のチャイナの都市を空爆しています。とくに中華民国の首都だった重慶空爆は、当初は軍需施設対象でしたが次第に無差別絨毯爆撃となり、万単位の市民を殺傷したといわれます。日本人が、東京大空襲や広島長崎の被害を語ると、もっと先に重慶空爆をやっただろうと必ず言われます。
しかし、チャイナという国は、当時、強力な中央集権権力がない状態でした。南京を占領したときこれで戦争は終わったと思った日本人は、そのことが理解できていなかった。蒋介石主席は、すぐに政府を重慶へ引っ越して抗戦を続けたのです。そんな仮の首都ですから、重慶空爆も戦争を終わらせるほどの効果はなかった。
これではドゥーエの戦略爆撃を試す大前提が欠けています。
またこの頃、ドゥーエ理論の欠陥も見つかります。ドゥーエは敵国首都を急襲する編隊は、爆撃機だけでよいとした。爆撃機に機関銃も備えつけ、戦闘爆撃機にして、迎撃してくる敵の飛行機を落とせばよいとしたのです。
しかしこれは甘かった。日本の渡洋爆撃隊は、英米やソ連が提供した中華民国軍の飛行機にばたばたと落とされてしまったのです。犠牲は甚大だった。日本軍はあわてて爆撃機編隊を守る戦闘機開発に力を注ぐようになる。堀越二郎のゼロ戦もこれに用いられた。
ドゥーエの戦略爆撃が真に実行されるのは、その後です。皮肉なことに連合国側のアメリカが、超高空を飛ぶ大型機B17、B29を建造する。空の要塞、空の超要塞と呼ばれます。BはボンバーのB。爆撃機です。これで米軍は、東京を壊滅させた。昭和20年3月10日のことです。
この後、日本は鈴木貫太郎内閣が誕生、終戦工作が始まります。首都壊滅で降伏を促したのですから、まさしく「戦略爆撃」でした。広島長崎の原爆でようやく日本は降伏し戦争が終わったとする見解もある。アメリカ人がよく原爆投下を正当化するために唱えます。仮にこれが正しいとすれば、原爆も戦略爆撃ですね。
しかし、これらは戦争末期です。開戦後、いきなり敵首都を空から制圧して戦争を終わらせるには遠いですね。ヨーロッパでは、カート・ヴォネガットJrが『屠殺場5号』で描いたドレスデン空爆(1945年3月15日)を連合国は決行しますが、この時点で2カ月後のドイツ降服はすでに動かなかったようです。でしたら「戦略爆撃」による終戦とはいい難い。
「戦略爆撃」理論が真に実証されたのは、戦後かもしれません。
しかもそれで終結した戦争があったからではなく、なかったからです。というのはですね、戦闘機の支援もなく開戦後いきなり敵首都を襲い壊滅させる戦略爆撃兵器は、ドゥーエの想像もしなかった規模で実現した。核爆撃機、そして核搭載大陸間弾道弾というかたちででした。開戦後、アメリカ大統領やソ連書記長、チャイナの毛沢東が、核ボタンを押せば、数時間後には、モスクワや北京やニューヨークが消滅する状況が生まれたのです。
その結果、先進国間の第3次大戦は起こりませんでしたね。核相互確証破壊の平和、冷戦の平和とは、ドゥーエ理論による平和でもあったといえるでしょう。
現代の戦争で、湾岸戦争、イラク戦争における空爆の効果は絶大でした。しかし、地上戦もやってますから、純粋な戦略爆撃によるドゥーエ的勝利とはいえない。アフガンのタリバン政権は、9・11テロ主犯ヴィン・ラディン引き渡しを要求するアメリカの攻撃で崩壊しましたが、これは空爆がほとんどだったので、「戦略爆撃」による短期の勝利でした。
さてさて、ようやく話は、映画『風立ちぬ』へ戻ります。
先ほど、『風立ちぬ』で宮崎駿監督が描いた堀越二郎、名戦闘機ゼロ戦の設計者は、爆撃機が嫌いなのではないかと指摘しました。それでは、爆撃機を厭い、戦闘機を愛するとは、何を意味するのでしょうか。
『風立ちぬ』を戦争責任への反省や葛藤がないのは問題だといった貧しい次元でしか映画を観られない人たち(朝日新聞、毎日新聞の評はそんな感じでした。産経も立場こそ逆ですが似たようなもの。ここで、だから日本のメディアは……とか嘆く声が聞こえてきそうですが、ベネチア映画祭でもそうした批評はあったみたいですね)だったら、民間人をも大量殺戮する爆撃機と、軍人同士が殺し合う戦闘機という対立図式を描いて、戦闘機好きを相対的にヒューマニストに仕立て上げたくなるのかもしれません。
しかし、
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