メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

宮崎駿『風立ちぬ』の近代――戦略爆撃の時代の戦闘機乗り

浅羽通明

戦略爆撃理論は近代戦をどう革(か)えたか?

 ここで話を突然、思想史や文明史へと大きく広げてみましょう。思想史といっても、軍事思想史です。

 堀越二郎が夢で会話するカプローニ伯爵には実在のモデルがおりますが、彼の会社へイタリア軍から監督にきていた将校があった。それがジュリオ・ドゥーエ(1869~1930)。当時、少佐くらいかな。

 この人は軍事思想史にその名を刻む大物です。芙蓉書房出版から刊行されている『戦略論大系』という本は、第1期が全7巻ですが、孫子、クラウゼヴィッツ、モルトケ、マハン、リデルハート、毛沢東という大物とともにドゥーエが第6巻に入ってます。1917年に著した「制空」という論文がです。

 この人の理論が重要なのは、世界で初めて、これからの戦争では航空機がもっとも重視されるべしと訴え、空軍の独立を主張、制空権、そして戦略爆撃という概念を樹立したからでした。

 もっとも重要な戦略爆撃の理論を紹介しましょう。

 ドゥーエによれば、これからの戦争は開戦のとば口が切られるやいなや、爆撃機の大編隊がぐわぁーと敵国の首都まで飛んで、おもむろに爆弾の雨を降らせるのだ。そうすれば、首都にいる敵国の元首や重臣、軍部のトップらは、自分の命が風前の灯となり、いやおうもなく降伏するほかあるまい。こうして、戦争は空軍の力によりすぐ終結するだろう。

 なんだそれだけかと思われるかもしれない。しかしそれは私たちが、戦争といえばミサイルが飛び、飛行機が爆弾を降らせるのが常識となってから60年以上たった時代の存在だからです。

 発表当時、この提言がはらむ革命的意義は絶大でした。

 なぜってね、それまでの戦争を考えてみればよい。戦国時代だったら、関が原合戦や川中島。日露戦争の203高地、日本海海戦、奉天会戦。ナポレオンのワーテルロー決戦。みんな人里離れた野っぱらとか海上で軍隊同士が激突しています。あるいは砦を敵軍が包囲して攻めるとか。

 ドンパチは、首都から遠い両国の中間あたりで行われるのが普通です。だから、首都にいる政治的リーダー、軍の幹部、文化人などは皆、まず弾が飛んで来ないところにいる。それゆえに、まずおまえらが戦場へ行けよといった反戦論者の訴えが説得力を持つのです。一般民間人も、戦場から遠いところで生活を続けている。兵隊にとられた息子や夫や兄弟の無事を遠くから祈っているわけです。

 首都そのものが砲撃されて破壊され、敵軍がなだれ込んでくることもありますが、それはもう最後の最後。完敗です。たいがいそのまえに降伏して戦争は終わる。ナポレオンのロシア侵攻では、モスクワはロシア人により燃やされましたけどね。

 こうした常識が、航空機それも爆撃機の登場で根底から覆ったのですよ。

 もはや、王宮や大統領府も安全とはいえない。一般市民も死の危険において前線の兵士とまるで違うとはいえない。いきなり、火の雨が頭上から降ってきますから。

 ドゥーエ少佐が、カプローニ伯爵の生産工場付きとなったのは第1次大戦時のこと。はじめは偵察など、陸海軍のほんの補助として用いられていた航空機は、じきに機銃掃射や爆弾投下で戦えるようになります。そんな軍用機の黎明のなかで、戦略爆撃理論が発想されたわけです。

 イタリアはあんまり戦争が強そうな国ではありませんね。ヘタリアってくらいで(笑)。しかし、航空戦ではかなり先駆的でした。1911年の対トルコ戦争で、トリポリ上空へ飛来した飛行機から手榴弾を放り投げたのが、最初の空爆とされています。第1次大戦でも、カプローニ社の爆撃機が、オーストリー=ハンガリー帝国の都市を空爆しています。映画『風立ちぬ』の堀越二郎の夢で、カプローニ伯爵が、敵の街を燃やしに……と語っているのはこれでしょう。ただし、映画にあるような、街が炎に包まれるごとき戦果は実際には上げられなかったようです。

 さて、ドゥーエの「戦略爆撃」はこうした第1次大戦の航空機利用を参考にしながらも、まるで桁のちがう発想でした。

 それまでの航空機使用法は爆撃も含めて、基本的に陸で激突し海で大砲を打ち合う局所的な闘い、すなわちバトルへ参加して勝利の手助けをするものでした。敵都市爆撃もそれと大差ないものだった。これらは爆撃であっても、「戦術」爆撃なのです。

 対するにドゥーエの「戦略」爆撃はですね、個々の局所的戦闘なんか飛び越えた次元で、戦争そのものの勝敗を一気に決する爆撃なのです。真珠湾攻撃とかミッドウェー海戦、インパール作戦とかに勝利する方法が「戦術」であるのに対して、太平洋戦争とか大東亜戦争をどう勝利に終わらせるかが「戦略」爆撃なのですよ。

 ドゥーエは先駆者の不遇を味わいます。陸軍海軍で固まっている軍隊は、新しい空軍の時代が来て今後はそっちが主役だなんて認めたくない。だから降格されたり左遷されたりと、さんざんです。アメリカのドゥーエといわれるビリー・ミッチェルという人も軍法会議にまでかけられています。

 ドゥーエの場合、その晩年にムッソリーニがイタリアの権力を握った。ファシストって新しいもの好きですから、ドゥーエ理論に興味を示し、世界でも早く独立空軍を創設します。ドゥーエはその頃、寿命を終えます。幸せな晩年と……、いえるのかなぁ。

 しかし、ドゥーエが期待したような、戦争を即終わらせる戦略爆撃はなかなか実施されませんでした。スペイン内乱のとき、ファシストイタリアとナチスドイツが加担したフランコ軍によるゲルニカ爆撃。一般市民をも無差別殺傷した。ピカソの絵で有名ですね。でも犠牲者の数でみたら数百から数千人。軍事的効果もさほどではありません。

 日本軍も、渡洋爆撃といって、大陸のチャイナの都市を空爆しています。とくに中華民国の首都だった重慶空爆は、当初は軍需施設対象でしたが次第に無差別絨毯爆撃となり、万単位の市民を殺傷したといわれます。日本人が、東京大空襲や広島長崎の被害を語ると、もっと先に重慶空爆をやっただろうと必ず言われます。

 しかし、チャイナという国は、当時、強力な中央集権権力がない状態でした。南京を占領したときこれで戦争は終わったと思った日本人は、そのことが理解できていなかった。蒋介石主席は、すぐに政府を重慶へ引っ越して抗戦を続けたのです。そんな仮の首都ですから、重慶空爆も戦争を終わらせるほどの効果はなかった。

 これではドゥーエの戦略爆撃を試す大前提が欠けています。

 またこの頃、ドゥーエ理論の欠陥も見つかります。ドゥーエは敵国首都を急襲する編隊は、爆撃機だけでよいとした。爆撃機に機関銃も備えつけ、戦闘爆撃機にして、迎撃してくる敵の飛行機を落とせばよいとしたのです。

 しかしこれは甘かった。日本の渡洋爆撃隊は、英米やソ連が提供した中華民国軍の飛行機にばたばたと落とされてしまったのです。犠牲は甚大だった。日本軍はあわてて爆撃機編隊を守る戦闘機開発に力を注ぐようになる。堀越二郎のゼロ戦もこれに用いられた。

 ドゥーエの戦略爆撃が真に実行されるのは、その後です。皮肉なことに連合国側のアメリカが、超高空を飛ぶ大型機B17、B29を建造する。空の要塞、空の超要塞と呼ばれます。BはボンバーのB。爆撃機です。これで米軍は、東京を壊滅させた。昭和20年3月10日のことです。

 この後、日本は鈴木貫太郎内閣が誕生、終戦工作が始まります。首都壊滅で降伏を促したのですから、まさしく「戦略爆撃」でした。広島長崎の原爆でようやく日本は降伏し戦争が終わったとする見解もある。アメリカ人がよく原爆投下を正当化するために唱えます。仮にこれが正しいとすれば、原爆も戦略爆撃ですね。

 しかし、これらは戦争末期です。開戦後、いきなり敵首都を空から制圧して戦争を終わらせるには遠いですね。ヨーロッパでは、カート・ヴォネガットJrが『屠殺場5号』で描いたドレスデン空爆(1945年3月15日)を連合国は決行しますが、この時点で2カ月後のドイツ降服はすでに動かなかったようです。でしたら「戦略爆撃」による終戦とはいい難い。

 「戦略爆撃」理論が真に実証されたのは、戦後かもしれません。

 しかもそれで終結した戦争があったからではなく、なかったからです。というのはですね、戦闘機の支援もなく開戦後いきなり敵首都を襲い壊滅させる戦略爆撃兵器は、ドゥーエの想像もしなかった規模で実現した。核爆撃機、そして核搭載大陸間弾道弾というかたちででした。開戦後、アメリカ大統領やソ連書記長、チャイナの毛沢東が、核ボタンを押せば、数時間後には、モスクワや北京やニューヨークが消滅する状況が生まれたのです。

 その結果、先進国間の第3次大戦は起こりませんでしたね。核相互確証破壊の平和、冷戦の平和とは、ドゥーエ理論による平和でもあったといえるでしょう。

 現代の戦争で、湾岸戦争、イラク戦争における空爆の効果は絶大でした。しかし、地上戦もやってますから、純粋な戦略爆撃によるドゥーエ的勝利とはいえない。アフガンのタリバン政権は、9・11テロ主犯ヴィン・ラディン引き渡しを要求するアメリカの攻撃で崩壊しましたが、これは空爆がほとんどだったので、「戦略爆撃」による短期の勝利でした。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。