2013年10月02日
最後にアキが選んだのは、ユイだった。
現実にはありえない、美少女同士の友情で終わる物語。
寒村の町興しと、少女の自分探しと、3代にわたる「母と娘」の確執と和解を経て、芸能界バックステージものへと変わり、そのすべてが津波で流され、最後は復興も芸能界もどうでもよく、ひたすら走る二人の少女の姿を捉えての大団円。
セリフの応酬が見ものだったドラマは、最後は映像のみで語らせた。
このドラマを、当日の夕刊が報じたように、東日本大震災の被災地を元気にしたという次元に矮小化してはいけない。女の子の友情という奇蹟の映像化という点で、歴史に残るドラマとなったのだ。
男である私には「女の友情」が本当は存在するのかしないのか、それは分からない。それをいえば「男の友情」だって本当はないのかもしれず、友情が実際にあるのかどうかはどうでもいい。
虚構として、どれだけのリアリティをもって描け、観るほうがそれを信じたかどうかである。走り続ける二人を見て、少なくとも私は二人の友情を信じた。
お座敷列車のイベントを終えた二人が、なぜ、北三陸の人々に囲まれて終わるのではなく、海へ走って行ったか。町興しに利用されていることを十分に理解した上で大人たちにつきあったけど、一緒に歌ったのは、あくまで二人で一緒にいたかったから。二人は自分たちの個人の思いを開放させ、大人たちに労(ねぎら)ってもらって終わるのではなく、すべてを投げ捨て、走った。
たとえ故郷とはいえ、集団の利害を否定してみせた少女たちの快走に、拍手すべきだ。
そこで否定されたのは、最終的には国家へとつながる社会である。芸能界も社会だし、海女クラブという女の集団すら、漁協や観光協会といった社会の既存システムに組み込まれている。
アキとユイの二人は、そこからも自由だ。
だが、その自由も、永遠ではない。だから、続編は不要だ。
それにしても、小泉今日子と薬師丸ひろ子である。
まさか、彼女たちの姿を毎朝観ることになろうとは、1980年代には考えられなかったことだ。とくに、薬師丸は映画にしか出ないアイドルだったから、毎日、テレビで観るとは思わなかった。
この二人が寿司屋で対決するシーンは、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください