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ネット自警団の突然の「爆撃」に向き合うには――連続討議「ソーシャルメディア社会における情報流通と制度設計」から(7)

情報ネットワーク法学会

 ソーシャルメディア上で突然、自分の発言について、見知らぬ人たちから「爆撃」を受けた場合、どう向き合えばいいのだろうか。戦う、無視するなど、様々な対抗策があるが、「爆撃」を規制して、一人一人の意見表明の機会を奪うことは民主主義の否定にもつながりかねない。ネット選挙を契機に、政治的意見をソーシャルメディア上でぶつけあうフラットな空間が実現することの是非や、「爆撃」に対処する技術、制度的な解決法が議論された。(構成・新志有裕)

「選挙フェス」で新たな公共圏が生まれているのか

<藤代>話を進めますが、単刀直入にいえば、ソーシャル選挙は民主主義をぶっ壊すのかどうかを聞きたい。西田さんがおっしゃるように、巧妙な世論操作がソーシャルリスニングによってさらに精緻にできるようになりました。そこからどういう問題が起きるのか。

<西田>ぼくは今回のネット選挙を「理念なき解禁」だったと形容しているのですが、発表でも述べたように、従来通りの均質な公平性がいいのか、それともネットも含めて、たくさん情報を出して、ツールも含めて創意工夫が問われる制度設計がいいのか。そのあたりの議論がなされないままに、ネット選挙が解禁になってしまいました。なんのために解禁されたのか誰もよくわかりません……。

<木村>討議に入る前に確認させていただきたいのですが、ソーシャルメディアを使って成功したネット選挙の事例のイメージはどのようなものでしょうか。これまでの議論で紹介された成功例は、どちらかというと、ソーシャルを制御することでリアルを補強するものですが、積極的に使って成功した例としてはどういうものをイメージすればいいのですか。

参院選投票日前日の選挙フェス。ステージ左端が三宅洋平さん=2013年7月20日、東京・渋谷 参院選投票日前日の選挙フェス。ステージ左端が三宅洋平さん=2013年7月20日、東京・渋谷
<伊藤>全くの理想的な成功例ではないですが、比例区で17万票を獲得した(緑の党の)三宅洋平さんの票はソーシャルメディアがなければここまで伸びなかったのではないでしょうか。

 選挙前は当然、ミュージシャンである三宅洋平さんを知らない人の方が多かったわけですが、リアルのつながりの中で発言や行動がどんどんリツイートされていました。

 候補者本人が街頭で演説するとともに複数のアーティストがミニライブをやって「選挙フェス」と名付けた。そこに人が集まるわけです。ネットで盛り上がっていて、面白そうだから行こうという感じで人が集まり、実際に観て知名度が高まり、票につながったのだと想います。

 みなさん、比例区の候補者のビラが貼ってあるのを見たことはありますか。僕が見たのは三宅洋平しかありません。見た場所は、広尾のおしゃれなバーと、土日に長野の山奥でやっていた音楽フェスのヒッピーなファッションを売っている出店です。バーのステージ上で歌っている人が「来週選挙に行く? 友達の三宅がね……」と話をしていました。ソーシャルメディア上で広がった情報がリアルにも波及して17万人が投票したという実績はネット選挙の成果なのかもしれません。

<藤代>この選挙フェスについて、生貝さんにお聞きしたいのですが、ソーシャルメディアは新しい公共圏なのか。それとも公共圏を分断している存在なのでしょうか。社会学者が大好きな「公共圏」との関連について、生貝さんはどのようにお考えですか。

<生貝>理想の民主主義や公共圏のあり方については色々な考え方があると思いますが、ここでは敢えて、私たち一人一人がネット上で政治について発言するということの意味を懐疑的に考えてみたいと思います。

 第一に、政治と生活の距離の問題です。選挙の前になると町中を選挙カーが走ったり携帯に候補者の事務所から電話がかかってきたりするのはよいとしても、ツイッターやフェイスブックの友達の発言まで選挙の話題一色になるのはやはり違和感があると言わざるを得ません。特にネットで発言した場合には、人の記憶に加えてネット上にもログとして残り続けます。個人の政治的信条が選挙で明らかになることは、その後の人間関係や社会的活動にも少なからず影響を及ぼしうるものです。政治的議論の生活空間への浸食を過度なものにしないためには、それこそ伝統的な意味でのフェス、「ハレの日」のお祭りとしての選挙期間中に行った発言については、選挙が終わったら忘れるような約束事を社会で作る必要があるのかもしれません。

 第二に、ネット上での政治的言論が持ちうるカスケード(滝)的側面の問題です。論争的な事柄に関するネット上での議論というのは、それが実名であれ匿名であれ、やはりキャス・サンスティンの言うような意味でのサイバーカスケード、集団集極化の傾向を強く持つものです。「開かれた公共圏」で理想的な政治的議論がなされるのは理想ですが、誰もが理性的に、そしてその政治的問題に必要な知識を十分に持ち合わせて議論できるというのは、やはりいつの世も理想の域を超えるものではありません。

 そのときに私たちはこれまで、新聞・テレビ・雑誌といったメディアにおける比較的僕たち個々人からは距離を置いた公共圏の中で、専門家が代理となって議論を戦わせ、それを参考にして投票という政治的行動を行う方法論を発展させてきました。ネット選挙というとどうしても私たち個々人が政治についてフラットに議論を戦わせるということを強調しがちですが、ネット選挙の文脈においても、こうした公共圏の二層性、あるいは代議的な公共圏、そしてそこで戦わせられる議論の発信というのをネットがどのように実現できるのかということを、よく考える必要があるのではないかと思います。

<藤代>ネット選挙解禁前は、ソーシャルメディアで選挙の話が水平的に展開されて、デモクラシーが実現する、という見方がありました。例えば、伊藤穣一さん(MITメディアラボ所長)はダイレクトデモクラシー(直接民主主義)の可能性についてイベントなどでも熱く語っていましたが、今の生貝さんの話だと、それは気持ち悪いということですか。

<生貝>気持ち悪い、とまで言ってしまうことには少し躊躇がありますが、やはり誰も彼もが人前で政治について語るというのは、僕たちが慣れ親しんできた日本の民主主義のあり方、あるいは「政治と生活の距離」のあり方とは少し異質なものだということは、ネット選挙の文脈でも念頭に置く必要があるのだと思います。

 それから水平的議論ということに関して言えば、現代の情報環境では、例えば検索結果でもフェイスブックでも、プラットフォームの側がそれらの設定を少しいじっただけでアジェンダ(議題設定)を変えることができてしまいます。水平主義を強調し過ぎると、アジェンダの設定や世論の形成を相当程度プラットフォームに任せてしまうことになる恐れがあります。そうしたものに過度に左右されない、理性的な議論の場というのをネットの上でも構築していく必要があるのだと考えています。

<西田>参加にちょっとした敷居を設けておくことも大事ではないでしょうか。政治について、何らかの高い敷居を越えられない人の票は、ある種の浮動票と考えられます。電子投票は参加コストが限りなくゼロなわけですが、投票所に行くのはコストがかかりますよね。あれが重要ではないか。熟議が機能するためには形式が重要であって、結論を出すにはなんらかの切断が不可欠です。

ソーシャルメディアでの政策議論は気持ち悪い

<藤代>ここまでの討議について、できれば政治に近づきたくないという木村さんの意見はどうでしょうか。ソーシャルメディアやフェイスブックで政策議論が行われるのは、きもい、やりたくないという話ですよね。

<木村>正直なところ、非常に気持ち悪いですね。

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