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青山真治『共喰い』の端正な魅力(上)――反ポルノ的な性描写、役者たちの存在感、傑出した自然描写

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 青山真治監督の『共喰い』は、周知のように、第146回芥川賞を受賞した田中慎弥の同名小説の「映画化」だ。「映画化」とカッコ付きで記したのは、むろん、映画と小説はまったく性質の異なる、比較不可能なメディアだからである。また、小説を脚本化して映画にするという作業は、一筋縄ではいかない、じつに厄介な問題を含んでいるからだ。

 が、それについては追い追い述べるとして、日本映画を代表する監督の一人・青山真治と、筋金入りの脚本家・荒井晴彦がタッグを組んだ映画『共喰い』の非凡な出来ばえについて、まずは語りたい。

 『共喰い』は、「俺が十七のとき、親父が死んだ。昭和六十三年だった」というナレーションとともに始まる。その声のとおり、昭和最後の夏の、“川辺”と呼ばれる下関市の過疎地が舞台の、17歳の遠馬(とおま:菅田将暉<すだ・まさき>を主人公にした“血と性と暴力”のドラマだ。

――遠馬は、父親の円(まどか:光石研)とその愛人の琴子(篠原友紀子)と暮らしているが、父にはセックスしながら女を殴ったり、女の首を絞めたりする異常な性的嗜好があった。

 戦争中、空襲に遭い、左腕の手首から先を失った遠馬の実母・仁子(じんこ:田中裕子)は、夫に愛想を尽かし、川一本隔てた場所で魚屋を営んでいる(仁子は義手――終盤で重要な小道具となる――をつけて魚をさばく)。遠馬は仁子の家にも通い、父の例の性的嗜好や、その他さまざまな過去の出来事を聞かされる。父を疎ましく思う遠馬だが、幼なじみの千種(木下美咲)とセックスを重ねるうちに、自分にも父と同じ“忌わしい血”が流れていることに気づく……。

 このように展開してゆく『共喰い』には、当然ながらセックス・シーンが少なくないが、青山真治はそれを実に細心、かつ大胆に“正面突破”して描いている。いささかも煽情的/ポルノグラフィックではないが、息をのむほど鮮烈な描法で。――とりわけ、<見せること>と<省略すること>のさじ加減が絶妙である。

 たとえば遠馬と千種が交わる最初のシーンでは、二人の行為は編集によって断片化される。つまり二人が情交する時間の大半を省略すべく、歯切れよくカットが割られるゆえ、そこにはエロチシズムはほとんど感じられない(私はエロチシズムが悪いと言っているのではない)。さらに、光と影を巧みに配するライティングの効果も手伝って、二人の男女の張りのある皮膚の肌理(きめ)が、みずみずしい清新さを放つ。

 また、円/光石研が琴子と性交する最初のシーンでは、蚊帳の中で愛人を組みしいて腰をせわしなく小刻みに動かす円を、ロングに引かれたカメラが――むろん蚊帳ごしに――とらえる。蚊帳とスモークによって軟調にかすんだ薄明るい、しかし奇妙に鮮明な画面の中で交わる二人の姿は、「美しい」とさえ言える(そのあと、立ち上がった精力絶倫の円の下腹部に屹立した、全長20センチはあろうかというハリボテ・ペニスは、笑いが喉につかえるようなおかしさだが)。

 こんな具合に『共喰い』では、その後もさまざまな性交が描かれる。――アパートのベランダで ・・・ログインして読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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