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青山真治『共喰い』の端正な魅力(下)――「文学」から遠く離れて

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 すでに述べたとおり、映像の連続からなる映画と、文字の列からなる小説は、形態そのものが本質的に異なる、比較不可能なメディアだ(映画における字幕やテロップは、映像の補完物でしかない)。したがって「原作小説に忠実な映画」が存在するとしたら、それはカメラで小説の頁の活字の列を最後までずーっと写してゆくという、奇っ怪なフィルム以外にはありえない。

 そして言うまでもなく、小説で細かく描写された情景なり人物像なり、はたまた彼・彼女の心理なりを、映画のカメラはワン・ショットで撮る/描くことさえできるし、小説を脚本化する段階で――原作者の許可(原作権)が得られれば――小説の描写・記述を大幅に省略、削除、改変することができる(つまり、映画には映画にしか描けないものがあり、小説には小説にしか描けないものがある、ということだ。そうした映画と小説の差異に鈍感な監督が、しばしばあの冗長な“文芸大作”――それはかつてフランソワ・トリュフォーが痛罵したたぐいの映画だが――を撮ってしまうのである。さらに極論すれば、ヒッチコックが喝破したように、映画は原作を裏切ってこそ傑作になるのだ)。

 要するに、映画が原作を小説に仰ぐ場合、映画にとって小説は出発点であり着想源であり、したがって、再構成し、大きく刈りこむべき材料/ネタにすぎない(これはむろん、映画が小説より優れた芸術だということでは全くない)。

 こんな自明のことをわざわざ書くのは、小説と映画を比較可能なメディアであるという前提に立って、しかも小説ではなく「文学」というコンセプトにのっとったうえで、それの映画化がどうのこうのと云々したり、「文学にとって映画とは何か」とか、この俳優は原作の主人公のイメージにぴったりだとかそうでないとか喋々する不毛な話題が、ある種の映画ジャーナリズムでいまだにフォーカスされるからだ(ここでいう「文学」とは、言葉によってディテールを組み上げてゆく構築物である<小説>ではなく、言葉によって人間ドラマを物語るジャンルという、「何となくそれらしい」曖昧で惰性化した観念を指す)。

 さて当然ながら、自ら小説も書く青山真治も、脚本家の荒井晴彦も、そうした映画と小説との、あるいは小説と「文学」との本質的な違いにきわめて自覚的だ。

 青山はこう語っている――「言葉という単位で映画にすることを考えると、小説の一行が一分になることもあれば、十ページ分を一分で撮ることもあるし、または十ページをカットすることもある……」、「私は小説と文学という言葉をものすごく厳密に分けて使っている……」(パンフレット)

 また、「キネマ旬報」(2013年9月上旬号)のインタビューで、青山真治は映画における<気象>の描写を、小説におけるそれと比較して、こう言う――「……気象というのは、たとえば小説で暑いという描写をどんなに重ねても、映画で一発、太陽が照りつけているカットをぽんと見せたら、これは勝てると思った」。

 まさしく、映画と小説における描写の根本的な違いを、ズバリ言いあてた発言だ(もっともこれは、<気象>以外の対象、たとえば人物の心理・感情・意識の描写などにも当てはまることだが)。

 いっぽう荒井晴彦は、“原作もの映画”が増えるなかで、本来まったく別ものである、映画および脚本と原作小説を同一視する版元や作家が多い点に苦言を呈している――「小説と映画、映画のための脚本は別の物だと(……)思っているんですけど、今、出版社も原作者もそうは思っていない。平気で原作者が赤を入れてきたりするんです」(「映画芸術」、444号)。

 急いで付言しておけば、映画『共喰い』の原作者・田中慎弥は下関の方言について以外、荒井の脚本にも一切クレームをつけず、完成した映画についても、自分の作品が終わったその先を描いてくれたと、青山と荒井に讃辞を述べている。

 なお、田中の小説の青山による映画化を最初に思いついたのは、荒井と、やはり北九州出身の光石研だったという。荒井と光石は、北九州の門司と関門トンネルで結ばれた下関でしか成立しないような“父殺し”を描いた田中の小説が、青山によってこそ映画化されるべきだと確信したのだ。

 まさしく、小説『共喰い』は、映画作家・青山真治と脚本家・荒井晴彦、そして俳優・光石研をインスパイアし、彼らにモチーフ/創作の動機をあたえたのである(黒沢清のように、脚本さえも映画の演出や撮影のための前段階であり、まったくの素材にすぎない、と言い切る監督もいるし、青山真治もオリジナル脚本の作品を多く撮ってきた監督である。ここではその点について触れている余裕がないが、映画づくりにおいて極めて重要なポイントだ)。

 田中慎弥の原作でもっとも優れているのが、海と川と陸が交わる“川辺”の、ほとんど河口と言ってもよい流域の精妙な描写だが、映画で描かれるその地域の空間的特徴は、原作のそれとはかなり違っている。

 田中自身、その点について、こう言っている――「……原作だと、川幅はもう少し狭かったり、神社はもう少し丘の上にある(……)。映画は平坦な地域で丘がなくて、べたっとしていて上ががらんと空いている[しかしさほど違和感はなかった]」、と(前掲、「映画芸術」所収の田中と荒井の対談)。

 そして、この対談の進行役・上野昂志は、いみじくもこう言っている――「映画の川は、海に向かっているのと、潮の満ち引きがあるのと、干潟みたいになっている感じがよく出て[いた]」、と。まさにその通りで、薄曇りの空のもと、ところどころ川床を露出させた黒ずんだ流れが鈍く光っている画面の質感の秀抜さは、何度でも強調しておきたい。

 ところで、千種を強姦して暴力をふるった円を、仁子が殺す終盤のシーンは、本作の最大のヤマ場のひとつだ。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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