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日活時代の鈴木清順特集、東京・神保町で開催中!――日本映画史における突然変異体

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今年、90歳を迎えた鈴木清順監督が日活時代に撮った作品が、東京・神保町シアターで特集上映されている。――本名の鈴木清太郎名義でメガホンを取った処女作、『港の乾杯 勝利をわが手に』(1956)から、日活の堀久作社長の逆鱗に触れ、日活を解雇される契機となった傑作ノワール、『殺しの烙印』(1967)にいたる20本がスクリーンで見られるとは、なんというシアワセ!

 てなわけで、私もすでに4回神保町に足を運び、もう何度も見ている『殺しの烙印』(1967)や『関東無宿』(1963)や『悪太郎』(同)、そして初期作品『暗黒街の美女』(1958、後出)や『暗黒の旅券』(1959)などを再見し、映画館のスクリーンで清順映画を見る至福の時間を味わった……。

 ではいったい、鈴木清順とは何者なのか――。

 彼は、ひとことで言えば日本映画史におけるミュータント/突然変異体であり、日活アクション映画というジャンルに鋭い亀裂を刻みつけた映画作家である。

 肝心なのは、鈴木清順が、そうした観客の期待に添わねばならない、規制の強い娯楽ジャンル/日活アクション映画を、その内部から切り裂き、ねじ曲げたという点だ。つまり、高尚ぶったアート映画としてジャンル映画に対抗したのではなく、「娯楽映画にしかなりえないものを芸術映画にし」てしまったところが、日活時代の清順の凄さなのである(カッコ内は、名著『鈴木清順全映画』<上野昂志・編、立風書房、1986>)所収の、評論家・石上三登志の発言、238頁)。

 たとえば『関東無宿』(1963)は、任侠道を貫こうとするヤクザ・鶴田(小林旭)の物語を描きながらも、鶴田と敵役らの斬り合いの室内場面では、ふすまが倒れ、画面は一面の赤になり、ついで黒になり、そして次の瞬間、鶴田は雪の降る道を歩いてゆく……という目もあやな展開になる(むろん、それらの色は何かの象徴でもなければ、隠喩でも寓意でもない)。

 フィルムの流れ=映画内の時間をブツ切りにするような奇天烈な、しかし超かっこいい清順ならではの画(え)づくりだ。こういう画面展開に対する観客の反応は、大ざっぱに言って二通りあった(今もあるだろう)。つまり、「わからない/乗れない」という困惑と、「何だ何だこれは!?」と度肝を抜かれ、興奮し、打ちのめされる、という反応――。

 われわれはもちろん、後者の反応をしたわけだが、当時の日活上層部に典型的な、前者のような反応に対しては、ああそうですかと言って、「そんな奴らは認めない」と心の中でつぶやくしかなかった(「そんな奴らは殺してやる」となると、“連赤”やアルカイダやポルポトになってしまう<笑>)。

 いずれにせよ、とりわけ日活時代後期の清順作品――『野獣の青春』(1963)、『関東無宿』(同)、『東京流れ者』(1966)、『殺しの烙印』(1967)――などでは、あざやかな原色や奇怪な仕掛けが唐突に出現し、フィルムの流れを寸断し、われわれをしびれさせたのだ。

 こうした鈴木清順特有の画面展開をもう少し具体的に見ておこう。

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