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1930~50年代の東宝映画20本が、東京・京橋でニュープリント上映!(下) ――成瀬巳喜男『浦島太郎の後裔』をめぐって

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回のフィルムセンターの特集で、11月10日、19日に上映される成瀬巳喜男監督の戦後第1作、『浦島太郎の後裔(こうえい)』(1946、東宝)は、トンデモなく変な映画である(しかも傑作!)。成瀬といえば、芸人もの、小市民の家庭劇、恋愛メロドラマを、抒情的かつクールに描くことを最も得意とした名匠だ。

 ところが『浦島太郎~』が描くのは、成瀬作品の中ではきわめて異色な、政治権力の大衆操作に利用される男の悲喜劇であり、「成瀬らしくない」と評されても当然な映画かもしれない。そして、おそらくそうした内容ゆえに、本作はまともに論じられることがなかった。

 GHQの映画民主化政策に沿ったお仕着せ仕事、すなわち当時量産された「民主主義高揚映画」の一本と見なされる本作について、成瀬自身、「戦争中とは逆の意味で、“仕方のない”写真ですね」と述懐している。

 だが前述のように、『浦島太郎~』はなんとも面白い傑作なのだ。とはつまり、「成瀬的」であろうとなかろうと、本作の面白さは成瀬巳喜男の演出が生んだものである(それに成瀬は、ほとんどつねに注文仕事を断らず、あてがわれた企画を自分の映画にしてしまう稀有な才能の持ち主だった)。

 したがってここでは、本作について少々詳しく書いてみたい――。

<物語の要約:太平洋戦争直後、南方から復員した髭面(ひげづら)――口髭とあご髭がモジャモジャとつながっている――浦島五郎(藤田進)は、ラジオ番組に出演し、南洋の島で住民が発していた「ハーアーオー!」というターザン風の叫びを上げる。その叫びは住民らの不幸を表すもので、浦島は自分がそれをラジオで叫ぶのは、日本の現状を憂えてのことだと言うが、彼の“憂国の叫び”は復員兵たちの共感を呼び、日本じゅうにセンセーションを巻き起こす。

 「大権威」(!)という新聞社の女性記者・阿加子(高峰秀子)は、上野公園で浦島に取材し、彼を現代の英雄に祭り上げるべく、彼に国会議事堂のてっぺんで何日間も叫ばせる(議事堂はむろんミニチュアのセット)。その叫びはラジオで放送され、浦島人気はさらにエスカレートしていき、彼は“時の人”となるが、そこに目をつけたのが「日本幸福党」だった(「大権威新聞社」の社長・唐根(菅井一郎)は、浦島を日本幸福党に売りつけ私腹を肥やす)。

 民主主義を標榜し、財閥解体、軍国主義批判を呼号するその政党は、じつは主張とは裏腹なブラック組織で、隠れ戦犯の黒原総裁(龍岡晋)とパトロンの大富豪・豪田(三津田健)の支配下にあった。そして浦島は、はからずも「幸福党」の傀儡(かいらい)にされ、党の政権奪取のために叫び続けることになる。

 やがて阿加子は、浦島を幸福党の傀儡にした責任の一端は自分にある、と悔やみ、上司の千曲女史(杉村春子)にも説得され、浦島に、幸福党が旧勢力の温存を図るニセ民主主義政党であることを気づかせる。ラストで浦島は、幸福党のインチキを壇上で暴露し、映画を締めくくる――>

 映画研究者のスザンネ・シェアマンは、『浦島太郎~』には直截なメッセージがあり、単純なメッセージを伝えることは成瀬の得意とするところではない、と指摘する(『成瀬巳喜男――日常のきらめき』、キネマ旬報社、1997)。

 だが果たして、本作に「単純なメッセージ」などあるのか。私にはそうは思えない。なぜなら、本作が物語るポイントのひとつは、幸福党が浦島の叫びを通して伝える「単純なメッセージ」は、党が権力を掌握するためのデマゴギーだ、という事実なのだから。

 メッセージの点でいえば、むしろ本作の物語が告げているのは、

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