「踊る人形」
2013年11月16日
一般的に組織や団体の分裂は「良くないこと」「マイナス」とされている。みんなが一致団結し和気藹々(あいあい)の空気のなか運営していく。それが組織の望ましいあり方として是認されがちだが、趣味の仲間や「村社会」を維持していくのならともかく、激変期には政治や経済の世界でも分裂こそが新たな緊張と活力を生み出し、新しい果実を実らせることも多い。
分裂のマイナスを持ち前のアイディアでプラスの方向にもっていき、浅草に斬新で珍奇な「喜劇ブーム」をもたらした一人にエノケンこと榎本健一がいる。1930(昭和5)年から31、32(昭和16、7)年にかけて、浅草でのエノケンの人気は大変なもので、浅草の軽演劇界はエノケンを中心にまわっているといっても過言ではない。カジノ・フォーリーを分裂させ、新しい劇団を設立し、また分裂したりのプロセスをへて、やがて日本の「喜劇王」へと上り詰めるのである。
もちろん、エノケンとしても望んでカジノ・フォーリーを分裂させたのではなく、待遇改善のリーダーにまつりあげられたあげくに、辞めざるを得なくなったのである。エノケンはカジノ・フォーリーを脱退すると浅草の興行を仕切っていた木内興行部と交渉し、観音劇場に「新カジノ・フォーリー」を設立した。昭和5年6月のことで第2次カジノから1年足らずであった。
カジノ時代から連日楽屋に顔をだし、やがてエノケンの盟友となる詩人のサトウハチローは分裂劇の内情についてこう記す。
「ことの起こりは(文芸部の)黒田哲也から起こっている。黒田哲也もマルクスか何か一冊よんだんであろう。この夏前に、
『館主はこんなに、儲けているのに我々の待遇を一向よくしてくれない。僕はフンゼンとしてたつよ』
と、不平をもらした。実際誰の目からみたって、カジノ・フォーリーが、もうかっているのは解っているのだ。哲也ならずとも安いサラリーで働いているものとしては当然の要求なのだ。
『朝十一時から晩の十時まで、それに一ヶ月の二十日否それ以上は稽古々々で毎晩二時三時、サラリーでもあげてもらわなければたまらない』
まことに無理のない話しである。その昔ヨタ者をやったことのあるエノケンはすぐさま、『そうだとも』と賛成した。そうして、自分たちの要求を提出して、容れられなかった。いいですか、カジノ・フォーリーの館主もはやり資本家ですぞ。
そこで健坊は、フンゼンとして脱退した。
『健坊がやれば俺たちも』
と言っていた連中はどうしたか。フラフラと資本家にロウラクされて、健坊を裏切った。その先鋒は黒田哲也なのである。自分でコトを起こして置いて裏切るなんてなんたるやつであろう。と力んでみたところでしょうがないが、健坊は涙をのんで次の策にとりかかった。そうして観音劇場へ新カジノ・フォーリーをたてた」(『カジノ・フォーリー裸記』)
ここで黒田哲也といっているのは、文芸部の責任者の島村龍三であった。
水族館が浅草の繁華街からはずれの4区にあったのに対し観音劇場は浅草の中心の六区にあった。六区で興行を行うことは当時の芸人にとって出世であり、エノケンとしても張り切って人集めを行った。一座は中村是好や間野玉三郎のほかエノケン夫人の花島喜世子、エノケンの実妹の花園敏子、藤原臣(後の釜足)らであった。
「恐らく木内興行部としては落ち目の五九郎や諸口一九と合同させる補強劇団として考えていたのではなかろうか。ところが、エノケンはあくまで単独公演を主張した」(『喜劇人廻り舞台』)
五九郎劇とは曾我廼家劇の系統をひく芝居で、「のんきな父さん」などで名をうった曾我廼家五九郎が主宰していた。エノケンはここから若葉蘭子を、また諸口一九にいた竹久千恵子をスカウトした。
諸口一九は松竹蒲田映画の俳優で「日本のバレンチノ」と呼ばれたトップスターであったが、同社のトップ女優であった筑波雪子との恋愛沙汰をきっかけに松竹を退社し、雪子とともに映画製作会社をつくった。しかし映画は大コケ。窮余の策として諸口一座を旗揚げし、北海道から九州までドサまわりをした。この劇団に「演出助手」兼「雑用係り」として後の日本の商業演劇を重鎮となった菊田一夫が加わっていた。
諸口一座は当時としてはいち早くカジノ・フォーリーに通じる斬新な舞台をつくっていた。たとえば「カフェー行進曲」は当時まだ珍しかった洋楽伴奏の芝居で、輸入されたばかりの「フウ」というジャズを伴奏に使っていた。
「(フウという曲が)最初に輸入されて演奏されたのは、実は諸口一座が大阪角座で公演していたころのことなのである。と、いうよりもサキソホンとかバンジョーとかのジャズ楽器が、はじめてわが国にも輸入され、ジャズ音楽の演奏がわが国でもはじめられたのが、そのころのことだった。
思えば諸口十九一座というところは、そのころにしては型破りの新しい芝居をやっていたものだ。芝居の洋楽伴奏も、この一座が最初だし、演目の中に歌入りの新舞踊を一本はさむというようなことをはじめたのもここがはじめだし(これはオペラの狂言の立てかたをマネたのだろうが)また舞台にジャズ・バンドをのせたのも、芝居中心の一座としてはこの一座が最初だ」(『流れる水のごとく』菊田一夫)
菊田一夫にとって諸口一座での日々は、見るもの聞くものすべてが珍しかったが、もちろん嫌なことも多かった。
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