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[15]第2章 演劇篇(7)

ナンセンス忠臣蔵

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

成功をもたらしたのは珍奇であざとい宣伝と仕掛け

 1930(昭和5)年の末、珍妙にして人目を惹く広告が新聞の求人欄にのった。

 「遺産五千万を抱いて二三歳の未亡人、夫を求む、当方累なし、委細は玉木座へ」

 というものだった。「委細は玉木座へ」というところがミソであったが、大不況のなか大卒の就職率が3割にも満たず、しかも初任給が50円程度の時代の5000万円である。額があまりに大きいので、かえってまともに受け取った男性も多く、玉木座には「これは何たる吉報ぞと、われと思わん面々が髪を手入れしたり香水を匂わせ、中には履歴書まで懐中にして玉木座におしかけた」(『喜劇人廻り舞台』)。

 交通整理の警官まででたとのことだが、じつはこれは「夫を求む」という一幕物の宣伝であった。結婚をのぞむブルジョアの未亡人とペテン師との仲を玉木座の座主が取り込もうとしてミソをつけるという笑劇で、作者は「奇人」「変人」といわれた中山呑海であった。旗一兵によると、めかし込んできた応募者の中には宣伝と知って怒鳴りこむものもいた。

 こんなケースもあった。玉木座を結婚紹介所と勘違いして婦人が訪れてきたのである。婦人は「自分には5千万円はないが、4、5万円はある。足りないところは愛情で埋め合わせをするから、何とか良縁を世話してもらいたい」といって座り込んだ。

 象潟署(現在の浅草署)では「不景気時代につけ込む罪な宣伝だ」と玉木座に厳重注意をした。芝居の作者は呑海だが、仕掛けたのは支配人の佐々木千里であった。

 この時期の「軽演劇」についてまとまった記録としては旗一兵の『喜劇人廻り舞台』しか残っていないので、さらに同書から引用させていただくと……。

 中山呑海はこの騒動の前、自作の「エロ三世相」という作品で象潟署長のクビが飛びかねない問題を起こしていた。「エロ三世相」は音羽座の安木節と木村時子のひきいるレビュー団の合同公演で演じられたものだった。この中の「天の岩戸」の場面で、天照大神が馬鹿囃子のような歌と踊りにつられて、こもっていた岩戸から出てくるのだが、なんと天照大神はツルツツの禿げ頭であり、その反射であたりが明るくなるというものだった。

 観客は面白がってわいたが、禿げ頭で世の中が明るくなるというギャグに、右翼が、「国体の精髄である皇祖皇宗を茶化すとは不敬きわまる。警察は何をしとるのか」と騒ぎだし、管轄の象潟署長は左遷されそうになった。

 中山呑海は長身長髪で「怪人」といわれた多芸多才な人で、シナリオのほか演出、作詞もし、尺八を器用に吹き、舞台の背景を描き、さらに日活で映画監督もつとめた。時代に掉さすことで自らを際立たせた人で、旗一兵によると、玉木座の「プペ・ダンサント」がエノケン一座でかたまってくると、ほかに関心をうつし帝京座で色物や河合澄子のエロ・ダンスと合同して、メノコ義経「追分節の由来」という面妖なレビューを上演したのち、渋谷百軒店の聚楽座で「ピカ・フォーリーズ」を旗上げした。

菊田一夫の登場

 サトウハチローはエノケンのためにナンセンス・シリーズの「失恋大福帳」や「センチメンタル・キッス」の脚本を提供した。もっともこの2作はいずれも水族館時代に「カジノ」で上演されたもので、サトウハチローは無料で提供したと語っている。(『僕の浅草』)

 玉木座からデビューした新人のなかで異才を放ったのは、戦後の商業演劇で大きな役割をはたすことになる劇作家の菊田一夫である。複雑な家庭に育ち学歴もない菊田が、浅草に流れ着くまでの人生行路はそれ自体、波乱に満ちたドラマで自伝的作品の『がしんたれ』などに詳しい。波乱で屈辱に満ちた幼年期・青少年期の過酷な体験は、菊田一夫の劇作家としての肥やしになったといってよい。

サトウ・ハチロー=1959年8月、東京の自宅サトウ・ハチロー=1959年8月、東京の自宅
 「新カジノ」は前述のようには2か月ほどで解散し、菊田は失業するが、ほどなく師匠のサトウハチローの呼びかけで「プペ・ダンサント」に参加した。

 菊田一夫の鮮烈なデビューについては背景説明が必要だろう。今と違って当時は検閲があり、芝居の場合、初日の10日前に脚本を警視庁保安部検閲係りに提出しなければならなかった。

 この時は12月11日が期限でサトウハチローが脚本を書くことになっていた。ところがハチローは酒ばかり飲んでいて前日の10日になっても脚本ができていなかった。検閲係りに台本をださなければ初日をあけることはできない。

 菊田の自著『流れる水のごとく』によると、10日の夜8時半ごろ廊下のすみにある文芸部にいると、エノケンの楽屋に来いと呼び出しがかかった。赴くとサトウハチローが太った腹を突き出して座っていて、こういった。

 「菊ちゃん、お前、次の本書いてみろよ」

 菊田はびっくりして断ったが、「忠臣蔵をやるんだよ」とサトウはいう。菊田は忠臣蔵の芝居を見たこともなかった。戸惑っていると、「講談本ぐらい読んだろう」とサトウはいって、「いま、おれがしゃべってやるから、その通り書けばいい」というのだった。菊田がぽかんとしていると、サトウハチローは一言二言ギャグをしゃべった。すると、隣で化粧(かお)を作っていたエノケンがこういった。

 「あす、上げ本しないと初日があかないんだよ。幕があきゃ私らがなんとかするから、とにかく本の形だけ作ってくれよ」

 菊田は義士銘々伝の講談本を渡され、「これを読んでなんとかまとめろ」と、そのままどこかの待合の一室に缶詰になった。

 サトウハチローや終演後やってきたエノケンや役者たちが、別室で芸者を呼んでわいわい騒いで飲んでいる間、菊田は徹夜で原稿用紙に向かった。傍には浅草レビューの先輩にあたる山下三郎が謄写版の原紙とヤスリと鉄筆をもって、菊田の書く脚本の原稿をかたっぱしからコピーする気で待っている。

 アチャラカ忠臣蔵につけた題名は「阿呆擬士迷々伝」で、全12景。プラン用のノートに菊田は以下のことを書き付けた。

1、浅野内匠頭は安全カミソリで切腹すること。
1、城明渡しの時は城に貸し家札をはること。
1、城に別れるとき家来たちは、その時の流行歌「若者よなぜ泣くか」を歌うこと。
1、赤垣源蔵徳利の別れ、兄貴のメリヤスの下着に別れを告げているとノミが出てくること。
1、上野介は、役人はだれでもワイロをとるのだから、決して自分は悪くないと思っていること。
1、勘平が死のうとすると、義理を立てて死ぬなんてアホらしいからよしなといわせること。

 「こうして原稿用紙73枚の処女脚本が書きあがったのが、そのときすでに翌朝の10時であった。午前1時から書き始めたので執筆所用時間は9時間ほど。山下三郎と刷り上がった台本を閉じて検閲本を作っていると、使いがきた。
 『サトウ先生がいまここにおいでになりますから帰らないでください』
 そこにハチロー親爺がはいってきた。
 『菊ちゃん、ついでだからもう一本書いてくれよ』
 他の作者に頼んでいた筋のあるバラエティ台本が出来上がってこないのである」(『流れる水のごとく』)

 菊田は疲労困憊しながらも2本目の台本を仕上げた。ある種のいい加減さ、今風の言葉でいえばアバウトさが、とくに非難されることもなく生きていた。それが一種の土壌となって、時代を画するような新鮮で珍奇で面白いものが生まれるのである。

エノケンとサトウハチローの打ち合わせ

 「阿呆擬士迷々伝」については、サトウハチローがエノケンとの間で行われた「打ち合わせ」の内容を雑誌『改造』(昭和6年1月)に載せている。題して『僕の浅草』。

 当時、サトウハチローは浅草の新仲店の飲み屋「みやこ」を「出張所」としていた。ここはサトウが不良少年時代から行きつけの店で、「気心が知れているから毎日のように此処で、酒をのみ、仕事をしている」のだった。そこにエノケンが訪ねてきて、忠臣蔵をやりたいという。やや長くなるが、舞台の雰囲気を容易に想像できるやり取りなので引用すると……。

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