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必見!フランスの新鋭ギヨーム・ブラックの『女っ気なし』――“散文的な詩情”あふれる快傑作

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 1977年生まれのフランスの新鋭、ギヨーム・ブラック監督が撮った『女っ気なし』(2011、58分)を、元なみおか映画祭ディレクターの三上雅通氏に薦められて見たが、期待にたがわぬ清新な傑作で、三上氏の炯眼(けいがん)に改めて脱帽すると同時に、低迷ぎみのフランス映画界にこんな才気あふれる若手が登場したことに一驚した(もっと早く見ればよかった、と悔恨……)。

 本作はジャンル的には、フランス映画の伝統のひとつである「ヴァカンス映画」だ。しかし、ブラックが影響を受けたという、その分野の偉大なる先達、エリック・ロメールやジャック・ロジエの痕跡がほとんど払拭され、じつに独創的なフィルムに仕上がっている点にも、この監督の非凡さがみてとれる。

 舞台はフランス北部ノルマンディー地方のオルト。季節は夏の終わり。30代の冴えない風貌のシルヴァン(ヴァンサン・マケーニュ)が管理するアパートに、パリからやって来た美しい母娘が泊るが、3人は海水浴や買い物をして楽しく過ごす。が、やがてシルヴァンは、陽気でセクシーなパトリシア(母親、ロール・カラミー)に惹かれてゆく。が、そこに友人の警官ジル(ロラン・パポ)が現れ、恋のさや当てになる。そして終盤、非モテ系に思われたシルヴァンをめぐって、物語は意外な方向に転がる――。

 とまあ、連続殺人も大災害も描かれない本作では、寂(さび)れて物悲しいような雰囲気が漂う海辺の小さな町オルトの、文字どおりのローカル・カラー/地方色がなんとも<散文的>に、つまり反=観光映画的なリアルさで、じつにキメ細かく掬(すく)いとられている。そしてそれが、この町の化身のような、小太りで毛の薄くなったシルヴァンをめぐる小波乱の絶妙な背景となるのだ(みごとなロケ地の選択!)。

 いっぽう、パリジェンヌの母娘のキャラクターが、それぞれ対照的に描き分けられている点も作劇上のキモで、うまいなあと感心させられる。母親パトリシアは開放的でお喋りで男好き、肥満体ではないが肉付きのいい官能的な体形だ(彼女が砂浜に横たわる場面で、小さなビキニ・ショーツが豊満な肉のあいだに吸い込まれるような感じで彼女の秘所を辛うじて覆っているのが、変にスリリングだ。このあたりはやはり、“変態”エリック・ロメール直伝のものだろう)。

 また、パトリシア/ロール・カラミーのテンションが高いからこそ、シルヴァン/ヴァンサン・マケーニュの<受け>の言動/芝居が生きてくるのだ。

 彼女の娘、ジュリエット(コンスタンス・ルソー)はといえば、華奢(きゃしゃ)で内向的な読書家で、母親の巻き起こす“恋の空騒ぎ”を傍らで冷静に見まもっている、という役柄だ(ジュリエットは、エリック・ロメール『海辺のポーリーヌ』(1983)で、大人たちの恋愛沙汰を横で静かに観察する少女ポーリーヌ(アマンダ・ラングレ)を連想させる)。

 そして、それゆえにこそ、ラスト近くで花柄のブラウスの下に手をくぐらせ黒いブラジャーを外し下穿きを脱ぎ、乳首までちらりと見せるジュリエット/コンスタンス・ルソーの姿に意表を突かれるのだ(三上氏はコンスタンス・ルソーに悩殺されたと、しきりに強調していた)。

 それにしても、母親の陰に隠れるような地味な女性として画面にうつっていたジュリエットの存在感が、終盤、ぐーっと前面に出てくる作劇にはうならされた。

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