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こん棒で殴り合う「言論の荒野」が生まれている――連続討議「ソーシャルメディア社会における情報流通と制度設計」から(11)

情報ネットワーク法学会

 「ソーシャルメディアはリヴァイアサン(怪物)を生み出している」。生貝直人氏の問題提起から、メディアリテラシーの議論に入っていく討議メンバーたち。誰もがこん棒でお互いを殴り合うような「言論の荒野」ともいえるソーシャル空間の秩序は、最低限どうすれば保たれるのか。そして、ソーシャル時代のリテラシー教育はどうあるべきなのか。コミュニケーションの土台となる公共圏のあり方について、意見が交わされた。(構成:新志有裕)

情報発信の権利をどこかに預けるべきか

<藤代>(基調発表の)伊藤儀雄さんのプレゼンでは、受け手、伝え手という二つのアクターがいました。ソーシャルメディアの発達によって、誰もが発信者であり受信者である、という発信者と受信者が混在した状況が生まれていると思いますが、まずは受け手の観点から議論を進めましょう。

<生貝>ソーシャルメディアの特徴を一言で言うならば、人々のインタラクション(対話、相互作用)の増大と、それによる言葉通りの「社会」の発現だと思っています。今までインターネット上で隔絶した個人だった人たちが、日常的に相互のやり取りをするようになった。これは非常に大きな変化で、そのなかに新たな社会や集団が生まれてきています。いま問題になっているのは、そうした社会のあり方を誰も制御できていない現状です。

 新たな社会が生まれてくると、どうしてもホッブズの言うところの「万人の万人に対する闘争」が始まるので、リヴァイアサン(旧約聖書に登場する海の怪物。ホッブズは国家になぞらえている)に統治を委ねるのか否か、その正当化の根拠は社会契約なのか、といった論争が始まります。民主主義をソーシャルメディア上に再現するのか、あるいは他の方法で社会に秩序をもたらすことは可能なのか、いままさに考える必要があるのだと思います。

<山口>いま生まれているのは、ネットで情報を享受する、という環境の変化に、人間が対応していないという状況だと思います。例えばデマの伝達、流布などは、リアルな世界でも起きていたことですが、それがネットで可視化されるようになりました。と同時に、影響力が大きくなったわけです。往来を歩いているときに手を振っているだけなら人には当たらないが、新たに5メートルの棒が開発されて、その棒を振り回していれば誰かに当たる、さて問題だ、というイメージです。

ソーシャルメディア活用支援会社「ガイアックス」では、選挙の候補者への中傷やデマ情報などがないか、24時間監視している=2013年6月、東京都品川区ソーシャルメディア活用支援会社「ガイアックス」では、選挙の候補者への中傷やデマ情報などがないか、24時間監視している=2013年6月、東京都品川区
 現在は、新たな道具である棒が誰かに当たって迷惑をかける長さがわからないままに、かつてのままの意識が残っているわけです。メディアの信頼性をめぐる議論も、このあたりが根っこにあるのではないでしょうか。

 昔ならプロフェッショナルしか持てなかった5メートルの棒を、今は誰でも持てる可能性がある。言い換えれば、巷に流れる情報がマスメディア発のものだけでなく個人発のものも入り交じっている状況だということですね。そういう現実に人々が対応できていないので、プロが作り上げたコンテンツへの信頼感が、一般のコンテンツにも残っているに過ぎないのではないか。

<一戸>それは、新たな道具に即したリテラシーが身につくことによって解消できるのでしょうか。

<山口>問題が解消できる場合もあるでしょうけれど、取りこぼしは当然あると思います。

<生貝>緊密な社会が存在していない時には、いくら5メートルの棒を振り回してくれてもいいのですが、社会が生まれてくると、振り回せばその棒は他の人に当たることになります。リヴァイアサンや政府に統治を委ねるということは、ある意味では、法制度などの手段を駆使することで、私たちが単にそれらの「受け手」として生活できるだけの社会環境を、「誰か」にトップダウンで作ってもらうことです。

 もうひとつの選択肢は、もっとボトムアップで、「私たち」自身が、積極的に倫理や規範を作ることによって闘争を解決していくという手段です。今はどちらの手段を選ぶにしても、法律や規範などの要素に加えて、レッシグ(米国の法学者)の言うところのアーキテクチャ、つまり技術による解決というのが重要な要素になってきていますよね。

<藤代>ソーシャルメディア以前は、受け手と送り手がわかれていたから「万人の万人に対する闘争」にはならなかったわけです。我々が情報を発信する権力を新聞やテレビに預けていたとも言えます。ホッブズは、人間が欲望を追求する利己的な存在だからこそ、問題解決のために自然権を放棄して共通の権力をつくるという考え方を示したと思います。

 例えば、中世には私的な制裁であるリンチが行われていましたが、次第に社会が個人の代わりに問題を解決していくようになる。自警団が犯人を捕まえて殴っていたのが、警察が捕まえて裁判所が判断するようになった。近代民主主義というのは、我々が持っていた権利を一度ある権力に預けて、代行してもらうことで問題を解決するというアイデアでもあります。生貝さんは、我々が手にした、こん棒を振り回す権利を、どこかに預けたほうがいいという考えでしょうか。

<生貝>直接の答えではないのですが、近代民主主義の契機というのは、基本的には中間団体による支配の排除だったという側面があります。つまり、個人の生活の集積から社会ができ集団が生じてくると、ギルド、協会、大学といった中間団体が、その権力により人々の振る舞いを統治するようになってきます。そのような状況はあまり平等・公平ではないので、それらをできるかぎり、すべてリヴァイアサンとしての政府の管理の下に置こうという選択をしたのが、今までの2000年以上続く社会の歴史だったのですね。

 そうした歴史や構造を否定して、ボトムアップな新しい社会構造を作ろうというのは実は簡単なことではない、という前提は共有しておくべきだと思います。問題の立て方をもう少し特定するなら、やはり議論のベースとしては「誰か」に力を預けるモデルを考えたほうが現実的で、その際に預けてはいけないものは何なのか、ボトムアップで実現できる部分は何なのかを議論したほうがずっと生産的です。その上で、ボトムアップはどういう主体によってなしうるのか、それを技術はどう助けるのかを話したほうがよいと思います。

メディアの規範は崩壊したのか

<藤代>私は、ソーシャルメディアの登場によって、従来メディアに存在していた道徳や倫理といった規範が崩壊しているのではないかと考えています。マスメディア時代の情報発信の中心は、新聞とテレビです。マスメディア不信や危機が叫ばれている中、各種調査のデータによれば新聞やテレビは依然として信頼度が高い一方で、ソーシャルメディア上では、マスメディアが信じられないという意見も多くあります。これは既存マスメディアを中心に成立していた規範が、ソーシャルメディアのユーザーに共有されていないことから起きるのではないでしょうか。

<西田>規範は壊れていないと思います。規範とは見えない信念のようなもので、連続性があり、今でも多くの人たちは、大手マスコミをそこそこ信頼しています。そのなかにソーシャルメディアなどのウェブ的なものに対しては、尺度がないのでどう処理していいかわからず、遠ざけているような状態に陥っているだけなのではないかと思います。

<山口>マスメディアが信用できない人は、西田さんのおっしゃる通り多数派ではないと思います。信用できると思っている人はわざわざ発言しないので、サイレントマジョリティである可能性が高い。もう一つ、人が何かを主張しているとき、それを額面どおりの意味にとらえるのがいいかどうかも考えた方がいいでしょう。「マスメディアは信用できない!」も文字通り「信用できない」のではなく、むしろ自分が強く期待を抱いているマスメディアに対する不満のあらわれ、「もっとがんばってくれ!」という意味でそのような表現をしている可能性があります。

<藤代>なるほど。ただ、ソーシャルメディアの世界でどの情報を信頼するかという規範はまだ成立してないのではないでしょうか。マスメディア時代の場合、週刊誌はなんとなく怪しい、東スポはネタだろう、といったようにメディアの信頼度が共有されていたのではないか。

<生貝>一般に、規範が定着するのは難しいことです。法律の目が行き届かなくても闇夜で刺されなくなったのはせいぜいこの100年の間のことだし、飲酒運転が減ったのはこの10年、路上喫煙が減ったのもここ3年程度の出来事です。全部規範で解決できるはず、という態度は捨てないと、議論が間違った方向に行くかもしれないというリスクがあります。

 人間の規範とは基本的にはある程度情報が共有された、固定的なメンバーシップによる「繰り返しゲーム」の中で初めて成り立つ、というのが社会科学の標準的な理解です。

 アヴナー・グライフという米スタンフォード大学の経済学者が1990年代頃から研究を展開していますが、中世地中海のマグレブ商人が、公式な司法機関もないのに遠隔地取引をうまく機能させていたのは、商人同士がお互いよく知っていて、直接知らなくても裏切り者を排除することができたからです。つまり、中央政府がなくても、信用できる、できない、村八分にするかどうかをお互い監視していた。ところが、商取引が高度化していき参加者が多くなるにつれ、マグレブ商人は駆逐されます。彼らを駆逐したジェノバ商人が持っていたのが公式な司法システム、裁判所だった。

 私たちのネット社会も、マグレブがいいのかジェノバがいいのかを選択する必要があります。規範と呼ばれる手法をネットワークの中に実現したいのであれば、それこそ個々人の活動やコミュニケーションのログを全部残し、マクルーハンが言う「グローバル・ヴィレッジ」を言葉通りに実現する必要があると思います。それに対して私は「今からムラ社会に帰るなんて嫌だ」と考えていて、インターネットにも権力と法は必要ではないか、という話をしたわけです。もちろん全てを法か規範のどちらかに頼るということはできず、結局は法と規範双方を、どの程度のバランスで育てていくかという話です。

<藤代>なるほど。では、インターネットにおける法と規範をどう作るべきかというアイデアはありますか。まずは、技術的な部分から議論しましょう。

<伊藤>例えば、ソーシャルメディアのタイムラインに情報が流れてくるけれど、真偽がわからない状態を指摘してくれるような機能があるといいですね。情報ソースによって信頼度を数値や色分けで表示したり、過去に間違った情報を流したかどうかが見えたりすればいいのかもしれません。以前にデマの発信源になったとか、誤解を招くような情報を流したという事実があれば、その人のアカウントの「信頼度」が下がるというような仕組みです。

<木村>技術的には可能だと思いますが、そうしたサービスのためには、過去のすべてのログを名寄せして持ちつづけている人、もしくは会社が必要です。また、過去の間違いをどのように検出するかを考えると、一つのプラットフォームでは解決できない問題になってくる可能性が高いと思われます。

 特にソーシャルメディアにおける活動範囲が広がっている人を対象にしようとすると、各プラットフォームに分散された情報をどうやって集約するかというハードルは、技術的な問題というよりは会社間の壁が大きいように思います。Open IDが現在のプラットフォームにおける、特にユーザーの同一性を判断する上での一つの突破口として考えられますが、どの情報を名寄せの対象としてどの情報を対象から外すのか。個人情報保護や倫理面での問題が発生しうる可能性が十分に考えられます。

<五十嵐>ソーシャルメディアが難しいのは、少し前ならmixi、今ならFacebookやTwitterというように発言する場そのものが刻一刻と変化し続けるので、なかなか全てのログを発見して可視化できない点が挙げられると思います。また、ソーシャルメディアの信頼性を確保するために、Twitterの「認証済みアカウント」のように、本物かどうかを知る術を用意しているツールも増えてきています。現在は芸能人や政治家などのように、発言に影響力のある人について、偽物の出現を食い止めるため、といった限定的な用途で使われていることがほとんどですが。

リテラシー教育の難しさ

<五十嵐>私は、すべてのインターネット利用者に対するメディアリテラシー教育の不十分さを挙げたいです。今まではメディアで流される情報は、基本的には信用できるものであって、そのまま受け取っていればよかった。しかし、ネットの中で大規模な「井戸端会議」が起こったときに、流れている情報が本当なのかどうなのか、真偽を判断できない人が多いのではないでしょうか。一方的に情報を受け取るだけならいいのですが、受け手が簡単に発信もできるからややこしいことになっています。

<山口>確かに、リテラシー教育は難しくて、どれだけ配慮してケアしても、伝わらない人が残って、取りこぼしが出ます。しかし、ネットでリテラシーがないためにいろいろな問題が起きているとよく言われますが、そこで起こった実被害とはどういうものがあるのでしょうか。もちろん深刻なケースもあるでしょうが、大半のケースは、実際は大したことではなくて、被害が過大評価されているような印象があります。少数の人が騒いでいることが、あたかも大炎上しているように見えているだけで、ネット上に記録は残りますが、ほんの数日もすればほとんど記憶から消えてしまいます。社会全体としては、それほど大きな影響を受けてはいないのではないでしょうか。ソーシャルメディアと、影響力の大きいマスメディアでは、影響力だけでなく被害にも大きな違いがあるはずです。

<西田>私もメディアリテラシーのことが気になっています。ソーシャルメディアには「トリレンマ」とも言うべき、三つの特性があると思っています。まずは、情報収集量を増やしたいという欲望。そして、個人的嗜好を追求したいという欲望。さらに、このような欲望を追求した場合、情報源の多様性は置き去りになってしまうということです。これら三つの欲望は同時に成立しませんが、ソーシャルメディアによってそれぞれが同時に拡張されてしまったのではないでしょうか。

<生貝>いったん問題を矮小化してもよいでしょうか。インターネットにおける「炎上」などの事故は、どうしても起こるものなのです。事故を起こさないように僕たちは法律や規範を作ったり、あるいは個々人のリテラシーを高めようとしたりするのですが、これらはつまり、事故の抑止と発生確率を低下させる努力なんですね。しかし、事故が起こらない社会を前提とすることは現実的でなく、事故が起こった際に救済する仕組みを同時に考える必要があります。

 そのための人類の英知のひとつが、いわゆる保険と呼ばれるものです。病気や事故にあったときのために1000円ずつ出しておいて、有事に備えるというものです。例えば、事実ではない情報に基づいて炎上が起こって個人の人生が台なしになりそうになったら、みんなで出し合っていたお金で大手ポータルサイトのトップページに訂正記事を掲載してもらい、その人の人生を救済するといった方法が考えられます。

<山口>そうした場合、例えば、自分が発信源となってデマが広く伝わってしまう事故や、デマに踊ってしまったことによる事故も含まれうるのではないでしょうか。

<亀松>ネットに流れる情報を「うかつに信じない」という部分は、リテラシー教育で解決できるのではないでしょうか。例えば、あるジャーナリストは「すべての情報を疑え」と言います。メディアが伝える事実について、完全に白、完全に黒というのは実はなかなかない、ということを認識してくれればいいのではないでしょうか。事実というのは案外あいまいなものだし、受け手側の価値判断によってその評価が変わってくるということを認識すればよい。「半信半疑」という状態に慣れましょうということです。

<藤代>そう思いますが、多様な情報を自分で吟味しましょうと言えば言うほど、怪しい情報を信じてしまう人がいます。まず、「マスメディアはウソだ」とレッテルを張る。そして、陰謀論やカルト的な情報を「正しい」と主張する。そうすると、受け手のなかの一定割合で、騙される人が出てきてしまう。伊藤さんは、マスメディアが取り上げないからこそ大変なことになっている、と指摘するユーザーの事例を紹介されていましたが、同じような構造があるのではないでしょうか。多くの人々が半信半疑の状態を作れず、メディアを疑うからこそ不安になっている気がします。

<山口>訓練すれば、リテラシーは向上すると思います。しかし訓練を受けた人でも間違えることはある。つまり、かならず取りこぼしはある。だからこそ、誰かが間違えたとしても、それによる被害は致命的か、実害は軽微ではないか、というのを常に問いたいのです。言ってしまえば、人には誰しも「誤解をする権利」があると思います。誤解している人に面と向かって、「おまえは間違っている!」と問い詰めても、うれしい人はいないでしょう。星占いに実害がないように、実害がないなら信じていてもいい事象もたくさんあります。

<亀松>情報の受け手が誤解することによって生じる実害は、最終的には「自己責任」の部分があると思いますが、問題は、マスメディアやソーシャルメディアによって、何らかの自分に関する情報を「伝えられた側」です。間違った情報が伝えられた場合、受け手には実害がないから問題がない、というわけにはいかないでしょう。

見出し難いインセンティブ

<西田>私が一般の方や学生たちにメディアリテラシーを教えていて困難を感じるのは、

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