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『ユリイカ 総特集・小津安二郎』を読む(下)――小津の過激な“美人主義”、小津の若手映画作家への影響など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『ユリイカ』特集号の論考中、所収の宇野邦一「凡庸と幻視」における、ジル・ドゥルーズの「小津においてはすべてが普通で凡庸であ」るという言葉を援用しての、小津の人生においては「突出したもの、特異なもの」は何もない、戦争さえも異常な出来事ではなかった、それは小津の映画の手法と同じく一貫している、という意味の宇野氏の説には首をひねらざるを得ない。

 小津がなんと証言しようと、小津の戦争体験の実相などわからないではないか。それに、小津映画の手法が一貫している、などと書くのは初歩的なミスである。そのことは、前々回論じたように、サイレント期からトーキーにいたる小津の個々の作品に息づく多種多様な面白さ・魅力を堪能した者には、一目瞭然だろう(『青春の夢いまいづこ』<サイレント、1932>では、江川宇礼雄が斎藤達雄に50発以上の平手打ち(!)を食らわせるが、本作は尋常ならざるバイオレンス映画でもある)。

 また、とりわけ「後期」の小津に顕著なように、女主人公/主演女優たちの美貌は、ドゥルーズの屁理屈に反して「突出しているし、特異なもの」だ。だいたい、ひとつの家族や職場に、あれほどの密度で美人が集中していること自体、「凡庸」とは真逆な異常な事態だ(原節子、司葉子、三宅邦子、山本富士子、岡田茉莉子、淡島千影、新珠三千代、岸恵子、久我美子……)。絶世の美女でなければ、小津映画のヒロインたる資格を失うと言っても過言ではない。

 いや、小津にかぎらず多くの映画がそうだ、などと言うなかれ。あの記念写真のような正面ショットで彼女らが撮られること自体、他に類例を見ない異様な事態ではないか。小津はあれらの稀少な美女たちの顔を正面から撮りたくて、あの手法を練り上げ、反復し、辻褄を合わせるために仕方なく主演男優や副人物たちも、くだんの手法で撮ったのではないか――。そんなふうにも想像したくなるが、こうした小津の美人ごのみを、ここでは彼の“美人主義”と呼んでみたい。

 蓮實重彦は前掲『監督 小津安二郎』の巻末に収録された、故・井上雪子へのインタヴューで、「[オランダ人の父を持つ井上雪子さんは]若き日の小津安二郎監督にとっての女性の美しさの典型として、その美しい横顔を映画史に残され、いつもとは違う『美人哀愁』[1931、サイレント、フィルム現存せず]のような映画を撮らしてしまわれたのですね」、という問いを彼女に投げかけている。

 つまり蓮實氏はここで、小津は井上雪子の美貌ゆえに――“美人主義”を発動させ――、自分の映画の作風まで変えてしまったのだ、と言っているのだ。

 ちなみに小津の過激な“美人主義”は、

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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