2013年12月18日
1. 風琴工房「国語の時間」(2月22~28日、座・高円寺1)
日本統治下における日本語教育の現場を描いた舞台だが、単なる歴史の一幕ではない。「国語」とは何かを問う、普遍的な問題意識に根ざした秀作だ。「国語」とは単に言葉の問題だけではなく、民族の文化、個人のアイデンティティーに否応なく結びつくことを突きつけてくる。(小里清・作、詩森ろば・演出)
教室には朝鮮総督府の監視官・甲斐(加藤虎ノ介)がしばしば訪れ、抗日の落書きをした犯人を探すように言い渡す。冷徹な管理を代表する存在だ。
一方で、上の世代が強いられる困難も描かれる。
「国語」の優等生の丸尾君は日本語しか使わないため、最下層の被差別民である父親と会話ができない。また、教室は成人にも開放され、息子が日本に渡ったという老母は息子に手紙を書きたい一心で日本語を学び始めるが、習熟は遅々として進まない。
重層的な群像劇を通じて文化支配の暴力性があらわにされるが、終盤で意外な展開を見せる。監視官の甲斐は実は朝鮮人パクでこの近くに生まれた被差別民だと、丸尾の父親が告発する。パクは母親を石で打って内地へ渡ったが、母親はまだ生きているという。
その母親こそ、日本語を学びに来ていた老母だった。彼女は、数年がかりで学んだ日本語でようやっと、息子宛の心優しい手紙を書く。それを読んだ甲斐は良心の呵責に耐え切れず、その息子は自分なのだと名乗りを挙げる。日本人の戸籍を奪って日本人に成りすまし、朝鮮総督府に来ていたのだ、と。
ところが、なんと老母は、その甲斐の告白が「難し過ぎて」聞き取れない。彼女はようやく短い手紙を書けるくらいにはなったものの、日本語のリスニングの能力までは得ていなかったのだ。
断腸の思いで語った告白が、相手にまったく理解されていなかったと知って、甲斐は愕然とし、打ちのめされる。この時、客席にいた私も衝撃を覚えた。
「国語」は、母と子の間に深い溝となって横たわり、真実の理解を阻むのだ。ここに、言語支配がいかに無理強いで理不尽なものであるかが浮き彫りになる。その矛盾が、「国語」を監理する側に因果応報として降りかかるという構造が見事だ。
中村、加藤が哀しみを秘めた役をストイックに力演。すりガラスを背面にして教室の閉塞感をにじませた美術も効果的。生徒の動きとして机の下を効用するなど演出もきめ細かく、子役も健闘していた。
2.「おのれナポレオン」(4月9日~5月12日、東京芸術劇場プレイハウス)
三谷幸喜作・演出によるナポレオンの死の謎をめぐるミステリー。セントヘレナ島に流刑となったナポレオンは病死だったのか、毒殺だったのか。晩年の彼を取り巻いていた5人の人物が順に状況を語り始める。
その周辺には、いずれも殺人の動機を持っておかしくない人物を配し、犯人探しの面白みを掻き立てる。ナポレオンに随行したのは、副官シャルル・モントロン(山本耕史)とその妻アルヴィーヌ(天海祐希)、従僕マルシャン(浅利陽介)だが、アルヴィーヌはナポレオンの愛人となっており、夫婦ともに彼に対して複雑な思いを抱いている。
ナポレオンを監視するセントヘレナ総督ハドソン・ロウ(内野聖陽)は彼とチェスの対戦をし、勝負に負ける。ナポレオンの大きさへの屈折した感情がある。主治医アントンマルキ(今井朋彦)にもいわくがあった。
終盤で明かされる犯人とは、エラリー・クイーンの傑作『Yの悲劇』のように、計画犯と実行犯が異なる、というものだ。この時、死者となったナポレオンが舞台上でチェスを指し、他の人物たちは自分らがチェスの駒のように盤上で踊らされていたことを知る。このどんでん返しが鮮やかだ。
さらにもう一つ、物語の枠組みにもトリックがある。
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