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[1]若者たちの時代 第1章「忘れられた歌姫――青山ミチの存在と闘い(1)」

13歳のデビュー

菊地史彦

 戦後の復興から高度成長へ、そして長い停滞期へ――若者たちは、それぞれの局面の中で「時代を超える夢」を見ようとした。そのいくつかは社会を動かし、歴史に刻まれたが、多くは顧みられず、忘れ去られた。
 しかしその夢は、いまだ歴史の中に、「未発の可能性」として熱を持ったまま埋もれている。映画や歌などの芸能からスポーツ、事件、経済、政治まで、消え去った若者たちが見た夢の数々を陰影深く描き、もう一つの戦後史を浮かび上がらせる。 

 <青山ミチ>という、忘れがたい歌手について書きたい。

 彼女は、若くしてデビューし、一時は人気を集めたものの大ヒットには恵まれず、自身の不器用な処世のせいもあって、約10年の活動を経て引退した。その後、いくつかの不祥事を起こし、消息を絶った時期もある。

 彼女には確かな才能があった。歌手人生を後から辿ってみると、ライヴァルを抜き去って一時代を画すチャンスもあった。

 しかし、なんらかの理由があって、ことは成就しなかった。 

青山ミチのベスト盤「GOLDEN★BEST」(右)と「身の上のブルース/或る女の人生」=筆者提供青山ミチのベスト盤「GOLDEN★BEST」(右)と「身の上のブルース/或る女の人生」=筆者提供
 彼女はまだ人生の途次にある。ゆえに私がこの稿で描き得たのは、昭和歌謡史の一部をなす、かなり限られた範囲の彼女の肖像である。

 私が青山ミチをはっきり認識したのは、彼女がデビューしてずっと後のことだ。

 ミチは、1970年に始まった「全日本歌謡選手権」(大阪・よみうりテレビ)というオーディション番組に、その年の2月から出演し、10週勝ち抜いて、グランドチャンピオンの座を獲得した。

 ミチはその時、21歳になったばかりだったが、すでに7年以上のキャリアを重ねていた。情感の表現力が群を抜いていることは、18歳の私にもすぐ分かった。滲みだす哀愁は、彼女がすでに人生の闘いを十分に経験していることを伝えていた。

 「全日本歌謡選手権」にはアマチュアも参加できたが、番組の目玉は、売れないプロ歌手が再起を賭ける、気迫のこもった歌いっぷりだった。1970年、ミノルフォン専属の三谷謙は、この番組でミチ同様、グランドチャンピオンになり、ともに審査員だった山口洋子と平尾昌晃に見初められて再デビューを果たした。新しい芸名は五木ひろし。曲は山口と平尾が書いた「よこはま・たそがれ」である。

 同じように、八代亜紀も天童よしみも中条きよしも山本譲二も、この番組を足がかりにその後の座をつかんだ。ちなみに他の審査員は、歌手の淡谷のり子、作曲家の船村徹と鈴木淳、それに音楽評論家の竹中労という凄い顔ぶれだった。

 歌う方が真剣勝負なら、審査する側も白刃を抜いてこれに応じた。竹中労が、数週勝ち抜いた「かぐや姫」(第一次)を、切って捨てるような口調でこき下ろしたことがあった。南こうせつの屈辱に歪んだ顔も印象に残った。

 その鬼のような審査員たちが、青山ミチを毎週、絶賛した。そして、10週勝ち抜いた彼女に向かって、(私の記憶では)船村徹がこう語りかけた。

 「あんたは歌がうまいんだ。本当にうまいんだよ。だから、道を過たずに、とにかく歌一筋に歩いていきなさい」

 青山ミチは泣いていた。船村が何を言いたいかは彼女だけでなく、テレビの視聴者にもわかっていた。しかし、この非凡な歌手はその後も、「歌一筋」を貫くことができなかった。

 青山ミチこと、八木フサコは、1949年2月7日に横浜市中区西之谷町で生まれた。

 母は日本人で、父は米軍の兵士だった。

 父のナーシス・ケリーは、横浜山手に進駐した部隊の炊事班の軍曹だった。フサコの祖母、八木サキヲが経営する西之谷町のバー「エース」に通ううちに、店を手伝っていた君子に好意を持つようになる。

 ケリーは温和で明るい男だった。カウンターの端でもの静かに飲む彼に、サキヲも君子も好印象を持っていた。そのうち、ケリーは君子に結婚を迫り、何度目かのプロポーズによって同意を得る。

 1948年、25歳の米軍兵士と18歳の日本の少女の同棲生活が始まる。

 翌年、女の子が生まれる。後にケリーが語ったところによれば、彼の愛称フレンチ、祖母のサキヲ、母のキミコから一字ずつ取ってフサコと名づけられた。

 親子3人の生活は、しかし、長くは続かなかった。朝鮮戦争の終わった1952年に、ケリーは帰国し、母子はその後を追うことはなかった。

 フサコは出生の6年後、1955年に、祖母サキヲの五女として入籍された。小学校に上がる年齢になっていたからだ。ただし、実際に横浜市立北方小学校に登校してきたのは、3年生になってからだった。約2年間、彼女は、学籍はあるのに届出住所に不在の「行方不明児童」だった。2年生の終わり頃に現住所を知った学校が、登校するように言ってきたので、新学期から3年生として登校してきたのだった。

 それでもフサコはものおじせず、教室で元気よく振舞った。当時の担任教師によれば、分かっても分からなくても手を上げて発言する。成績の方はさっぱりだったが、月例の仲よし会では同級の米系の男子と、流行歌をみごとに歌ってみせた。真っ赤な洋服を着て通学するフサコは、女優かファッションモデルになりたいと、教師に夢を語っていた。

 横浜市立港中学に進学したフサコに転機が訪れるのは、1962年の5月のことだった。中学2年生、13歳の少女は、叔母に連れられてジャズ喫茶「横浜テネシー」のコンテストに参加、3位に入賞する。曲は「子供ぢゃないの」。弘田三枝子が歌ったヘレン・シャピロのカヴァー曲だ。

 このコンテストの審査員、高木晋司は、自ら経営するエコープロに彼女をスカウトした。レコード会社はポリドールに決まり、同年の10月にはデビューシングルが発売された。A面は「ひとりぼっちで想うこと」(水島哲詞、中島安敏曲)、B面はコニー・フランシスのヒット曲「ヴァケーション」が収められた。

 歌手「青山ミチ」の誕生である。

 すでにテレビの受信契約数は1000万の大台に乗っていた。フジテレビの「ザ・ヒットパレード」や日本テレビの「シャボン玉ホリディ」は、不動の人気番組となっていた。渡辺プロダクションを筆頭に、若い洋楽系歌手を抱えるタレント事務所の鼻息は荒かった。放送局が、カヴァー曲やそれに近い雰囲気の曲が歌える歌手を欲しがったからだ。

 ミチはそこへやってきた。各局の歌番組はミチの出演を熱望した。ダイナミックな歌唱力は弘田三枝子のライヴァルとして格好の存在であり、歌のうまさは第二の江利チエミかという評判だった。13歳の少女の未来が、大きく開けたと見えた瞬間だった。

歌に書き込まれた「宿命」

 ミチは、デビュー曲の「ひとりぼっちで想うこと」を映画『悪名波止場』(森一生監督、大映、1963)の中で歌っている。今東光原作の「悪名」シリーズは、勝新太郎の「八尾の朝吉」と、田宮二郎演じるインテリヤクザの清次が、義に欠ける悪党たちと戦う初期の任侠映画である。『悪名波止場』は7作目の作品だ。

 巻頭、瀬戸内海を航行する連絡船に朝吉と清次、着物姿のお照(藤原礼子)が乗っている。船中で丁半賭博をやっている三郎(藤田まこと)のイカサマを暴露すると、病んだ妹のためだと泣きつかれる。同情する朝吉。清次がいつものクセが出たとボヤいていると、組織の金を横領した三郎を追う地元ヤクザ(鬼瓦組)が因縁をつけにやってくる……。

 主人公たちが下船した港町のクラブでミチが歌っている。赤いノースリーブのシャツと白いパンツ。足元もローヒールの白い靴だ。店内には、セーラー服姿の米軍水兵が数人いて、近隣に基地のあることが示されている。

 クラブの真っ赤な壁を背景に、マイクなしで歌うミチは年齢不詳というしかない。撮影時で14歳であったはずだが、歌声も身体も少女のそれをすっかり抜け出している。歌詞の語る物語は10代にふさわしく、他愛ないが、伝わってくる情感はずっと深く、重い。

  夜の渚すてき
  星を浮かべ砕ける
  波にうつす姿
  ひとりぼっち淋しく
  思い切り叫びたい
  あの人が好きだって
  いいじゃない いいじゃない
  わたしだけ ひとりなの

 「夜の渚すてき」から始まる4フレーズは、この歌が浜辺の恋に象徴される青春歌であることを知らせている。それでも作詞家は、少女が「ひとりぼっち淋しく」しかも「思い切り叫びたい」事情を背負っていることを伝えずにはいられなかった。

 さらに、二度繰り返される「いいじゃない」は、ミチの後の生き方をみごとに先取りしている。歌手も薄々それに感づいていた。だから、「いいじゃない」は、自分に言い聞かせているようにも、他者に哀訴しているようにも聞こえる。夜の渚にたたずむ少女の歌から、人生の不可抗力に対する怖れと諦めがこぼれだしているのである。

 青山ミチは、彼女にかかわる人々を、その「在り方」に引っ張りこむ力を持っていた。後で述べる「失踪事件」に際して、ポリドールの担当者は、「ミチの顔見ると泥沼に引きずりこまれちゃうんです」と語った。

 これは率直な証言だが、彼女のパワーは、スケジュールを混乱に陥れるといった実務面に留まらなかった。彼女の表現活動にかかわる人々は、半ば無意識のうちに、彼女の「在り方」に巻き込まれ、その「在り方」自体を作品の中に描き込みたくなってしまうのだった。

 『悪名波止場』は、『若い樹々』(1963)、『下町の太陽』(1963)に続いて、ミチの出演した3作目の映画である。最初の作品では、ジャズ喫茶の歌手「野添ミチ」という役名も台詞もあったが、後の2作では、匿名の歌手としての出番しかない。にもかかわらず、『悪名波止場』では、なぜかミチの「在り方」と映画が奇妙に重なりあっている。基地のある町のクラブという設定からしてそうだ。店内の赤い壁は、おそらく進駐軍の兵士を相手とする店を象徴するインテリアである。

 また、映画の後半、米系少女マリ(ジニー・マリッチ)が、一種の狂言回しを務めるところも興味深い。

 マリは、滝瑛子が演じる訳ありげな女、悦子が生んだ子である。清次(田宮)が、この少女を殺害された三郎の妹「おとし」の娘に急遽仕立て、鬼瓦組の荷揚げ会社に見舞金の掛け合いに出向く。マリは、関西弁を喋るヘンな碧眼金髪娘で客の笑いを誘いつつ、役目を無事果たす。

 ただ、この三文芝居が成功するのは、会社側が、清次のインチキを見抜きながら、金の決着を望むからだ。しかも、その支払いは「国際児」に対する贖罪行為のようにも見える。弁の立つ清次が、嬉々として交渉に臨むのは、この心理的効果を知っているからである。ちなみに清次は進駐軍で働いた経験を持ち、映画の中でも若干の英語を操る。

 さらにある種の予告のように、映画は、死んだおとしを麻薬中毒者として描いた。鬼瓦組の闇の商売には、香港を仕入先とするドラッグビジネスも含まれていて、おとしはその犠牲者だった。船中で三下の三郎(藤田)がほのめかした妹の「病」とは、このことだったのだ。

 監督の森一生や脚本の依田義賢が、何を考えていたのか今はもうわからない。シナリオはできていて、その一場面に合う歌手役が求められたのかもしれないし、エコープロやポリドールがミチを売り込むにあたって、内容に何らかの関与をしたのかもしれない。詳細は分からない。ただ、結果として、映画はミチの在り方をまるでトレースするように、物語を展開していくのである。

 基地文化や「国際児」は、ミチが否応なく抱えてきた烙印である。もちろん、麻薬については、ミチがこの方面で「事件」を起こすのは10年以上後だから、偶然の符合にすぎない。

 しかし、彼女が芸能生活のごくはじめの頃から、常に直面せざるをえなかったのが、これらの「徴」だったことはまちがいない。人々は、まるでミチの「在り方」に強迫されるように、彼女の「徴」を描きこんでしまう。作詞家の水島哲が思わず「いいじゃない」と自責的な容赦を求めてしまったのも、作曲家の中島安敏が青春歌謡を書きながら、ブルース風の旋律を埋め込んでしまったのも、私は、彼らがミチに巻き込まれてしまったからだと思っている。(つづく)