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日本史必修で日本史嫌いが増える? 教科書なんか放っておけばいい

鷲尾賢也 鷲尾賢也(評論家)

 出版界のなかで、「歴史」「宗教」「哲学」分野は、いつの時代でも必要とされるテーマである。俗にいえば、多くの読者がいる。自分の意見を世に問いたい多くの著者がいる。若い編集者に、企画で困ったときは、「歴史」「宗教」「哲学」に頼ることと、いつも言っていた。

 人はなぜ生きるか。何のために生きるのか。どうやって死ぬのか。どこから来て、どこに行くのか。永遠に解決はつかない。だから、「歴史」「宗教」「哲学」のプランは無限に転がっている。これは編集者生活で得た確信である。

 有機化学を専攻し、大企業の研究所で定年まで勤めた高校時代の友人に久しぶりに会ったら、いま近世地方史を勉強していると言っていた。謎解きのようでおもしろいと顔をほころばせていた。最近のメールには、とうとう古文書の読み方にまで、歩を進めているという報告があった。

 そういうなかで、「日本史の必修化検討」(朝日新聞1月8日付)という記事にはかなりの違和感がただよう。報道によれば、自民党筋から「グローバル社会を見据え、日本のアイデンティティーを学ばせる必要がある」という意見がつよく、新教科「公共」の導入と一緒に、必修化にむかったという。必修にしたからといって、日本への「アイデンティテイー」が高まるとはとうてい思えない。まして、「アイデンティテイー」は学ばせるものでもあるまい。

 文部科学省や自民党は、近年の日本史研究の進展をきちんと認識しているのだろうか。精緻にしかも事実に則した水準は想像をはるかに超えている。10年ほど前になるが、「日本の歴史」全26巻(講談社)の編集責任者として、ゲラをすべて読んだ記憶でもそうであったし、最近刊行の「岩波講座 日本歴史」(岩波書店)などでも、その発展はいっそう確かめられるだろう。

 また、ロングセラーになっている網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』(ちくま文庫)や、同『「日本」とは何か』(講談社学術文庫)を繙けば、日本史が「日本のアイデンティテイーを学ばせる」ためになるといった矮小化されたレベルではなくなっていることは、容易に想像できることではないだろうか。

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