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ウェイン・クラマーの『スティーラーズ』を見逃すな!(上)――デタラメなのに泣ける予測不能な犯罪コメディ

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 南アフリカ出身のウェイン・クラマー監督の『スティーラーズ』は、ともかく変な映画である。しかも、めっぽう面白く、感動的な映画だ。――しかし困ったことに、この「面白さ」や「感動」が、じつに言葉にしにくいのである。

 しいて言うなら、序盤はモヤモヤ&イライラ&ドキドキな展開で、なんだなんだこれはと思って見ていると、だんだんドラマのなかに引き込まれ、気がつけば不覚にも涙ぐんでいるといった、そんな感じ……。

 お話はといえば――舞台はアメリカ南部で、白人至上主義者の強盗(ケヴィン・ランキン)と、ジャンキーで幻覚に悩まされる仲介役(故ポール・ウォーカー)が、ある日、なじみの麻薬密売人(ノーマン・リーダス)から大金を強奪しようと企てる。

 同じ日、新婚旅行中のリチャード(マット・ディロン)は、ひょんなことから、6年前に自分の元妻を拉致監禁した異常者ジョニー(イライジャ・ウッド)の居場所を突きとめる。

 元妻を奪還すべく、また積年の恨みを晴らすべく、リチャードは自らも異常者と化したかのように、信じがたく残虐なやり方でジョニーを拷問にかけた末、彼に元妻の監禁場所/サイロ(倉庫)を白状させる(リチャードがジョニーの口を割らせる拷問法は、その異常者の上下の唇の両端に引っかけた4本の釣り糸をぴんと張り渡し、彼がヘタに動けば口が四方に裂けてしまうという恐ろしいもの。しかもリチャードは正方形に空いたジョニーの口に、振りかざしたカナヅチを……(コワくてこれ以上書けない)。

 しかしこの場面でも、ナマの残酷さはユーモアによって微妙に弱められていて、クラマー監督の芸の細かさが感じられる。また、これも伏せておくが、成功したかに思えたリチャードの元妻奪還劇は、予想外のアッと驚く結末を迎える。

 いっぽう、この2つのストーリーと並行して、崇拝するエルヴィス・プレスリーのそっくりさん(似てない<笑>)をやっている、ドサ回りのしがない芸人リッキー(ブレンダン・フレイザー)の笑うに笑えない頓狂なドラマが展開される(リッキーの注文をなぜか聞かない二人の床屋が、リッキー自慢のエルヴィス風モミアゲを剃ってしまったりする場面の、笑いが喉の奥でケイレンするような可笑しさ!)。

 そして、このつながりようのない3つの話が、偶然に次ぐ偶然という荒業で――ほとんどルイス・ブニュエル風に、あるいはリゾーム<根茎>状に――、奇妙な具合にねじれてひとつながりに接続してゆく、なんたるデタラメさ(これはむろんホメ言葉)。それにしても、いわば“ヘタウマ”風な描写によって生まれる、このムチャクチャだが妙に説得力のある接続感は、かなりスゴイ。しかもそれは、サソリの毒のようにじわじわ効いてくるのだ。

 つまるところ、3つの物語における別々の人物たちが、拳銃やら指輪やらの、ちょっとした小道具を媒介にしながら順ぐりに前面に出てくる、多焦点的で悪夢のようなオムニバス性こそが、本作のキモだといえる(3つの物語の交差点となるのは、なんだかヤル気のない主人(ヴィンセント・ドノフリオ)が経営する質屋だが、彼と常連客の黒人・ジョンソン(シャイ・マクブライド)との少々アブナイ馬鹿話もおかしい。ちなみに本作の原題は「質屋の記録」)。

 ところで、『スティーラーズ』のそんな無茶な展開は、クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』(1994)の、あのシャッフルされて錯綜する時制による複数の物語の交差といった作風とは、似て非なるものだ。何より本作には、『パルプ・フィクション』の計算しすぎた「あざとさ」が皆無である(タランティーノは本作を大絶賛しているが)。

 ともかくウェイン・クラマーは、冴えたショットやら効率の良い語り口なんぞはクソ食らえといわんばかりに、立ち上がりのスローな、乱暴で無駄の多い(笑)描法でドラマを起動させてゆく。そして次第に、唖然(あぜん)とするような荒唐無稽、かつ予測不能なドライブ感をぐんぐん上げて、大小のサプライズを随所に仕掛けながら見る者を翻弄し、無茶な話を無茶なまま語り倒してしまうのだ。アッパレというほかない。

 中でもいちばん予想外なのは

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