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[18]第2章 演劇篇(10)

ムーラン・ルージュ

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

不景気のなか、劇場と映画館は大入り続き

 関東大震災後の日本と東日本大震災後の日本との共通点、酷似点について主に触れてきたが、もちろん相違点も多い。1930(昭和5)年も相変わらず不景気風が吹きまくり暗鬱な空気が社会をおおっていたが、日本全体が沈みきっていたわけではない。大都会に限った現象ではあるが、盛り場の賑わいは以前にも増して隆盛にむかっていた。朝日新聞は次のような記事を載せている。

 「世をおおう不景気風をよそにして、市内の劇場という劇場は大劇場から小劇場、場末の映画常設館にいたるまで、連日大入り続きという現象を呈している。その繁栄ぶりはとにかく、社会状態の暗たんたるに比較して、どこやら異常のものがあることを感じさせる。ことに満員が常例の弥生興行のあとには、花見月の四月は幾分人が下火になるという毎年の例を破って、今年は四月も三月に劣らぬ満員続き。芝居王国松竹が一手にしめている五大劇場は連日大入りぶくろの豪勢ぶり」(朝日新聞・1930年4月12日付)

 どこも客集めに大変な苦労をしている現在の商業演劇と比べると、大変な違いである。もっとも現在はテレビという装置があるので、それで満足している人が多いのかもしれないが。

 旧来の芝居に加え、カジノ・フォーリーの項で触れたように外国から新しく入ってきた「レビュー」が、とくに若者の心をとらえたのである。レビューに関心が集まることや新しい「文化」の普及について、雑誌『文学時代』(1929年8月号)が「新時代の趣味 映画・スポーツ漫談会」を載せている。

 出席者は、新居格、岡田三郎、片岡鉄兵、大宅壮一、堀口大学、高田保、浅原六郎等、当時の新進気鋭の作家や詩人、評論家等である。その中で大宅壮一は、「レビューのような感覚的なものが盛んになったのは、アメリカに伝統がないからだと思う。そしてそれが又アメリカ以外の国でも喜ばれるのは、それらの国々では既に民族的な理想を失ってしまったからじゃないかと思う」という。

 つまり、理想や理念を喪失し、一種混沌とした空気が社会を支配すると、人は旧来の価値観をくつがえすようなものに無意識的にもひかれるようだ。その典型例が浅草カジノ・フォーリーに代表される「日本式レビュー」であった。

日本式レビュー

 レビューについて、フランス事情に詳しい詩人で翻訳家の堀口大学が、上記の座談会で 「日本でも寄席というようなものはレビューの一種と見られるでしょうね」と語る。以下、座談会の一部を抜粋するとーー。

浅原「レビューは其時代の社会状態とか世相とかいうようなものを、舞台で口上を述べるような時に風刺的に説明するというような、そういう風刺的なものが元なんですね」
堀口「それは初めはそうだったんですが、それだから説明役の男と説明役の女というものが、レビューでは始めから終わりまであるのです。今でもありますが、それがみんなを紹介したり色々な口上をいって、それが突っついていわせるのですね。つまり胡椒をかけるので、だから初めは宝塚なんかでやっているように、筋というものがあった。例えば日本を出帆してマルセーユまで行く。その間のことを色々述べるのに託して説教強盗のこととか、そういう世の中の出来事を諷刺したりしていたのですが、それが段々変わってきて、この頃ではただ面白ければいいという風になってしまったんですね」

レビューはジャズ的

 当時の識者の一致した見解は、レビューは非常に「ジャズ的」であるということである。日本には安来節とか泥鰌掬いなどがあったが、それがレビューに似ているというのである。エロ・グロ・ナンセンスが流行する以前、知識階級はこうした動きに関心がなかったが、このころから彼らも興味をもつようになった。アメリカの影響もあり、日本人の生活が世界の動きと連動するようになったのである。

 レビュー化の現象は浅草等の大衆演劇にとどまらず、歌舞伎とか帝劇などの伝統のある大劇場でも出し物にレビュー色が強くなった。そのため、たとえば歌舞伎の伝統的でじっくりと構えた演技が失われテンポアップされてきた。

 こういう傾向について上記の座談会でこんなやりとりがされている。

浅原「ひとつの伝統破壊の傾向だね。内容的な理想というものが、刺戟されるものに転じてきたのだね」
加藤「テーマの軽視される傾向を同じようなものだね」
大宅「つまり昔は、或る人は金持ちになりたいとか、或る人は立身出世したとかいうような、生活の指導精神をそれぞれもっていたけれども、この頃はそれがどうでもいいという気持ちになってきたのじゃないかと思う」
岡田「それは娯楽を求める場合はそうだけど、生活指導精神までそうなっているとは思えない」
大宅「僕は生活の中に於ける娯楽の重要性が非常に増してきたのだと思う」

新宿ムーラン・ルージュの誕生

 こうした風潮にのって新宿の繁華街に、浅草の「アチャラカ」劇と「モダニズム」と「レビュー」の要素を混淆させた新しい劇団「新宿・ムーラン・ルージュ」が誕生した。浅草の玉木座で支配人をしていた佐々木千里が創設したもので、開場は1931(昭和6)年の大晦日であった。

東京・新宿3丁目の「ムーラン・ルージュ」=1951年東京・新宿3丁目の「ムーラン・ルージュ」=1951年
 個人が新たに劇場を開設するということは今も昔もかなり冒険であり、投下した資本に見合うだけの収益をあげることは容易ではない。しかし、浅草の興業街でもまれた佐々木千里である。新宿ならいけるという勝算があったはずである。

 新宿は「遊女」と「遊郭の街」などといわれていたが、関東大震災後、新宿からでる私鉄沿線に移り住んだサラリーマンや学生が多く集まる盛り場となり、大きく変貌をとげはじめていた。

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