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[19]第2章 演劇篇(11)

ムーラン哲学

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

新興芸術派の文士が脚本を執筆

 第1回公演のプログラムは以下のようなものだった。

 ○『猿の顔はなぜ赤い』(清水閨抽作)
 ○モダニズム・ナンセンス『ウルトラ女学生』(中村正常作)
 ○バラエティ、ダンス『ピエロは嘆く』(石井漠指導)ほか
 ○歌唱(楢崎勤案)、『独唱』毛利幸尚ほか
 ○大人用お伽ナンセンス『恋愛禁止分配案』(高田稔作)
 ○レビュー『水兵さんはエロが好き』(当馬吉作、荒尾静一振付)

 雑誌『近代生活』1932(昭和7)年1月号には、「山の手唯一の新レヴユー劇場(新宿)ムーラン・ルージュ開場」としてイラスト2枚入りの広告が載っている。そこには新春第1回公演スケジュールとして、中村正常作の『ウルトラ女学生読本』と楢崎勤作『恋愛学校参観記』、吉行エイスケ案、岡倉祐作『某男爵夫人ムーラン・ルージュに現る』といった演目が並び、文芸部顧問として吉行エイスケ等新感覚派3人の名前が記されている。

 プログラムに見られるように、当初の新宿ムーラン・ルージュは基本的に浅草カジノ・フォーリーの踏襲であった。ただ、浅草と新宿の客層は違う。

 佐々木千里は新興芸術派の3人にムーラン用の新鮮な台本執筆を依頼した。新興の盛り場新宿で、新しい表現を目指そうとする顧問格の吉行エイスケや龍胆寺雄、楢崎勤の3人は、計6本の台本を書いた。ただ、なかなか理想と現実は一致しない。初のレビュー台本『恋愛学校参観記』40枚を書き上げた楢崎勤は、ムーランについて『ムーラン・ルージュ雑記』と題してこう記す。

 「その狭い楽屋におかれたブリキ張りの火鉢にあたりに、僕はひまになると出掛ける。そして、いつとはなしに、楽屋の人達と顔馴染みになってしまった。大阪から来た踊り子たちが、大阪弁まる出しで、何かがやがやしゃべっている。童顔の中根龍太郎が、時々、哄笑させるようなことを云う。踊子たちが『あんまり、中根さんが笑わせるので、腹が痛くって、舞台で、よく踊れない』という。

 『ああ、私は「街の灯」のつづくかぎり、恥をさらすです』と云いながら、『街の灯』という演しものに登場する、チャプリンの扮装した中根龍太郎が、暗に「街の灯」に出ることを嫌がっている。僕は、こういう言葉をきくと、憂鬱にならざるを得ない。レヴュウといえば、へんに誤解されて、インチキなものと思われている。レヴュウの脚本作者もまた、レヴュウというと、インチキなものであっていいと思っているのか、時々、ひどいものを書く。そのひどい脚本を、ガリガリ徹夜して鉄筆で謄写紙に書くひと、それを刷るひと。そしてその台本を暗記する役者。それを観るひと。そんなことを、僕は思うと、レヴュウの脚本も決して蔑に書いてはいけないという反省をもたらされる。尤も、レヴュウをやる役者の中にも、ひどいのがいる。セリフを禄すっぽ覚えずに、台本にないセリフを舞台で勝手に、いい加減なことを云ってしゃべっている。しかし、こういう役者は、役者としての資格がないのだから、追い追いとその位置を失って行くであろう。観客は、決してそういうインチキさに、何時までも瞞着されていないだろう、そういうようなことも、楽屋の中で思ったことである」(『近代生活』昭和7年2月)

例のごとく客集めに苦労

 当時の新宿は映画館が充実しているのに比べ、演劇は浅草などに比べて低調だった。サラリーマンや学生は欧米の映画に強い興味をもっており、日本式のお涙ちょうだいや、型にはまった映画・演劇でなく、モダニズムの漂う洗練された欧米映画を見るため新宿にやってくる人が多かった。

 演劇が低調であるからこそ、佐々木千里は新たな演劇が根付くと思って新宿ムーラン・ルージュを創設したのだが、開場しても思うようにお客が入らなかった。その後、ムーランの花形になる明日待子は後年こう述懐している。

 「よくある話ですが『あそこへ行けば、踊り子のスカートがずり落ちる』といううわさ。これが客足を伸ばしたというエピソードもあります。いずれにしましても、それまで『屋上で回るのは赤い風車(電飾板のこと)、内部できしむのは火の車』とか『ああ、今日も看護婦さんの団体だ(客ではなく、客席の白いカバーのこと)』という閑散ぶり」(『ムーランの灯』北海道新聞社編)

 明日待子は小屋がオープンしてから2年後に入団したのだが、当時の稽古について、 「朝九時からけいこを始め、まず全員でその日の新聞を朗読、そして正午までが翌週の番組の立ちげいこ。当時、番組は、一回に軽演劇三本、バラエティー一本の計四本を一日三回上演、十日ごとに替えていくシステムでした。でも、けいこは手順を十分覚え切らないうちに、次週分に替わって行くのが実情で、相当厳しかったです」(『ムーランの灯』)と述懐している。

 オープン当初もほぼ同じやり方であった。

新奇にして珍奇で斬新な佐々木千里の客集め

 今も昔も芝居関係者は、どうやってお客を集めるかが大問題で、そこに多くのエネルギーを注がなければ続かない。じっさい、座員の給料も満足に払えなくなり、興業主の佐々木千里は苦し紛れに「金のかからない宣伝」を次々うった。

 例えば、国鉄新宿駅の伝言板を利用する宣伝。当時は各駅に伝言板があり、チョークで書き込みができたので、そこに「何々君、ムーラン・ルージュで待つ」「何々さん、何時にムーランで」と記した。黒板の伝言は8時間で消されるので、座内では「8時間宣伝」といわれた。

 当時は野球人気、とりわけ東京六大学リーグの人気が沸騰していたので、これも利用した。リーグ戦になると神宮球場へ呼び出しの電話をかけるのである。マイクロホンがなかったため、呼び出しがあると大きなプラカードに、「ムーラン・ルージュの××さん、急用ですから劇場へお帰り下さい」と大書して、休場の案内人が内外野のスタンドに見せてまわるのである。それなりに効き目があったものの、あまりに頻繁にムーランからの呼び出しがあるので、球場側に気づかれ、ムーランからだとわかると「火事でないと受け付けません」といわれた。

 さらに、浴場や理髪店に座員をいかせて「今度のムーランというのは面白いね」「何々という役者は変わっている。山の手のエノケンだよ」などとしきりに評判をいわせる。また、劇場の模型を宣伝車にのせ、それを東京では珍しかったシェパード犬にひかせて、学生街や盛り場を練り歩いたりした。

 当時としては珍奇にして斬新な宣伝を繰り出したものの、思うように客が集まらなかった。閉鎖は時間の問題かと見られていたとき、「救世主」が現れたのである。

救世主はやはりスキャンダル

 すでに触れたように、浅草のカジノ・フォーリーでもスキャンダルが呼び水になって人気が沸騰したが、新宿ムーラン・ルージュでも同じであった。昭和7年暮れ、ムーラン所属の歌手の高輪芳子が新宿のアパートで、当時、典型的なモボ(モダンボーイ)といわれた青年文士、中村進次郎と心中するという事件が起こったのである。

 芳子は死んだが、生き残った中村進次郎は警察から「嘱託殺人」ではないかと疑われた。

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