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[4]第1章「忘れられた歌姫――青山ミチの存在と闘い(4)」

和製ポップスから「艶歌」へ

菊地史彦

 ポリドールから日本クラウンへの移籍の意味は小さくない。

 日本クラウンは、新しいレコード会社だった。日本コロムビアの「叩き上げ」の常務・伊藤正憲が事実上更迭されたのを機に、伊藤を慕う現場のディレクターたちが、お抱えの歌手・作家を引きつれてつくった7番目のレコード会社である。

 設立は1963年9月。作家では米山正夫、星野哲郎、小杉仁三、歌手では北島三郎、五月みどりなどがコロムビアから動いた。水前寺清子、一節太郎、西郷輝彦、美川憲一は、クラウン草創期の新人歌手である。

 伊藤は、レコード制作の側から戦後歌謡曲を盛り立てた人物である。コロムビアの大看板、美空ひばりを見出し、レコードデビューさせたのは伊藤である。1949年、マネジャー、福島通人のゴリ押しによって、笠木シヅ子の代役のようにして、ひばりは有楽座のコロムビア大会に出演した。観客は熱狂し、ひばりは共演の二葉あき子、藤山一郎を食ってしまった。文芸部長だった伊藤はそのようすを見て、ひばりを引っ張ることを決意する。

 その年、初のレコード「河童ブギ」に続いて、「悲しき口笛」が発売され、同名の映画(斎藤寅次郎監督)の公開とともに、爆発的なヒットになった。藤浦洸作詞、万城目(まんじょうめ)正作曲になるこの曲は、たちまち50万枚のセールスを記録した。営業畑から文芸部長に抜擢された伊藤は「ライオン」と呼ばれ、畏怖されたが、信任もまた厚かった。

 その伊藤を追って日本クラウンに移ったディレクターのひとりが馬渕玄三である。五木寛之の小説「艶歌」で、主人公・高円寺竜三(「艶歌の竜」)のモデルになった人物と言えば、思い出す方もいるだろう。「艶歌」は舛田利雄の手で映画化され(『わが命の唄 艶歌』、1968)、芦田伸介が重厚な「艶歌の竜」を演じた。

 映画では、高円寺が売りだす新人歌手「眉京子」を水前寺清子が演じている。その他にも、一節太郎、笹みどり、美川憲一、泉アキなど、クラウンお抱えの新人たちが登場する。

 ミチも映画の中で歌っている。

 移籍から2年経って、彼女はまだ若手の扱いだったのだろうか。

 彼女が日本クラウンで吹き込んだレコードは、1966年から72年まで13枚ある。ポリドール時代は、4年間で25枚発売されているから、ペースダウンは明らかだ。ミチはあまり売れない歌手になってしまった。先の映画と同時期に、『クレージーの怪盗ジバコ』や『進め!ジャガーズ敵前上陸』に出演しているものの、歌う場面さえないゴーゴーガールの役柄だった。

 ミチが日本クラウンで吹き込んだレコードの多くは、歌謡ブルースの類である。黛ジュンの曲が――彼女は短期間ではあれ和製ポップスの女王のようだった――明るい哀愁歌だったとすれば、ミチの方は暗い悲愁歌といっていい。

 ドスを効かせた重い声調は、60年代後半の「艶歌」の“気分”と重なっている。戦前のブルースのモダンな雰囲気は、西田佐知子の「東京ブルース」(1964)あたりまででいったんとだえ、青江三奈(「恍惚のブルース」)から藤圭子(「女のブルース」)へ、しだいに「艶歌」の暗い淵の方へ接近していった。クラウンというレーベルは、まさに「艶歌」のメッカであり、ミチもまたその方向に起死回生の途を求めていた。

 ミチがクラウン時代に放った最大のヒットは、「叱らないで」(1968)である。詞は星野哲郎、曲は小杉仁三。ともにクラウンの創設に関わった作家である。星野は、コロムビア時代に北島三郎の「なみだ船」を書き、その北島を「俺の目をみろ なんにもゆうな」(「兄弟仁義」の詞)と無言で移籍を促したというエピソードが残されている。

 「叱らないで」も歌謡ブルースに属する曲調だが、どこか突き抜けて清冽な印象を与えるのは、星野の詞によるところが大きい。

  あの娘がこんなに なったのは
  あの娘ばかりの 罪じゃない
  どうぞ あの娘を 叱らないで
  女ひとりで 生きてきた
  ひとにゃ話せぬ 傷もある
  叱らないで 叱らないで
  マリヤさま

 歌いかけている主体は、「あの娘」を見つめる誰かである。それは母親ではない。かといって恋人でもない。しいていうなら、“彼女の近くにいる人々”の寛容なまなざしである。

星野哲郎星野哲郎=2005年
 高度成長期前半の大衆は、“こんなになった「あの娘」”にことさらの注意を払う余裕を持たなかった。戦後社会は――各地域の近代前期がそうであるように――巨視的に見れば、多様性を認める「民主的」な傾向を示しているものの、人種や性や家族にかかわる規範では、非自覚的な保守主義を維持し続けた。言うまでもなく、ミチは、この分野ではずっと〈逸脱者〉だった。

 歌の主体は、聖母に言及しているが、キリスト教徒ではない。なぜなら、クリスチャンなら「マリヤさま」が許しこそすれ、叱ることはないと知っているからである。ここで「あの娘」を見つめているのは、聖母を無雑作に母と同一視する下層大衆である。

 跪いている「あの娘」の方は、クリスチャンだろう。星野のイメージの中には、沢田美喜のエリザベス・サンダース・ホームがあったかもしれない。これは、例によってミチの発揮する巻き込み力の結果である。

 マリヤ信仰はカトリックの伝統である。ここから先は私の推測だが、星野が「マリヤさま」のイメージに託したのは、土俗的・土着的な「キリシタン」の聖母のようにさえ見える。「あの娘」を救えるのは、「民主的」な善導や福祉ではなく、今はもう忘れられた、土くさい「マリヤさま」がもたらす「奇跡」である、という文脈である。

 こんな推測を誘うのは、60年代後半の「艶歌」思想が、社会の下層に生きる人々へ視点を大きく旋回させていったからである。もちろん、星野もその中にいた。

 その思想は、「艶歌」を抑圧された大衆の怨念や情念の表出であり、潜在的であるものの、根底的な変革へのバネとして考えた。市民社会の小ぎれいな表層に隠されて見えない、またそこからはじき出された底辺の人々こそ本来の主人公であり、彼らの屈折した希望と絶望がないまぜになって「艶歌」が迸(ほとばし)る。そして、この滔々たる水脈は、遠く近代以前から流れ来たって今に至る……。

 「叱らないで」の「マリヤさま」も、そうした底流に目を向け、差し伸べる救い手として描かれている。貧しく、虐げられ、道を外れ、しかもマリヤに跪く「あの娘」こそ、“隠された歴史”の担い手であり、本来の主人公である、と。

 星野の詞をやや過剰に深読みしているのは、彼が「叱らないで」と同年に、水前寺清子の「艶歌」を書いているからだ。先に挙げた映画の主題歌であり、第10回レコード大賞作詞賞を受賞した作品である。

デビュー当時の水前寺清子 デビュー当時の水前寺清子
 水前寺の「艶歌」は、内容からすれば、忍耐と犠牲と労苦を通して「男の舞台」を立ち上げよと呼びかける、(星野の言葉を使えば)「援歌」である。泣かずにこらえ、意地をつっかい棒に持ち上げろと激励し、「負けて死ぬのは死ぬよりつらい」と意味不明の名文句で叱咤する。

 水前寺のボーイッシュで向日的なイメージを借りて、女が「男歌」を歌うところに妙があるものの、詞を素直に読めば、報われない仕事と当てのない生活に疲れた「俺」には、さしたる希望はない。

 「一が二になり二が三になる」という下積みの労働では、どうしても勝ち目がめぐってきそうにない。つまり、敗者の歌である。

 しかし敗者だからこそ、本来の主人公であるという逆説を主張している。すなわち、「艶歌」の〈艶〉とは、敗北を続ける無名の大衆が、時を得て逆転の闘いに立ち上がる時、身に帯びる光/艶である、というロジックである(そう見ればそんなに悪い歌ではない)。

 そして、「艶歌」のこうした本質を、負けた「女歌」として別な語り口で表出したのが、「叱らないで」である。自分が敗者であると認めるからこそ、聖母に赦しを乞う権利が生まれる。おそらくこの時、星野のなかには、ひとつの“確信的な艶歌思想”があり、それが「男歌」と「女歌」へ分岐して現れた、と私は考えている。

 この「艶歌」思想が、「進歩的」啓蒙主義に対する対抗思想だったという指摘がある。戦後民主主義を標榜する人々が築き上げた、開明的に見えて実は権威主義的なエリート主義に対する、カウンターカルチャーだったというのだ。

 音楽文化研究者の輪島裕介が、幅広い調査によって明らかにしたとおり、「艶歌」は、明治期以来の「演歌」(演説する歌)に直接由来するものではない。昭和期の流行歌の源流でも、ましてや日本文化の本質や日本人の心性につながるものでもない。「艶歌」のそのような意味づけは、60年代の半ば以後、比較的短期間に「ある種の知的な操作を通じて」(輪島裕介『創られた「日本の心」』、2010)、新たにつくりだされたのである。

 むろん、「艶歌」は突如無から発生したものではない。昭和の流行歌に流れ込んだ民謡調・浪曲調・お座敷調と、戦前の洋楽の影響を強く受けたブルースや古賀メロディが融合し、さらに「流し」「ヤクザ」「下積み」のイメージなどを取り込んだキマイラのような文化現象である。つまり、純正な「本質」ではなく、雑多な「表象」である。

 この融通無碍で変幻自在な歌を、戦後の「進歩的」な知識人や団体は嫌った。たとえば、初期の美空ひばりに対する批判や嫌悪は、その典型である。劇作家の飯沢匡(ただす)――当時は『婦人朝日』編集長――は、誌上で少女歌手の過酷な労働環境を暴き、詩人のサトウハチローは「ブギウギこども」と題した記事で、彼女を「ゲテモノ」と呼んだ。

 そうした「進歩派」への反論が出るのは、60年安保闘争以後のことである。評論家・竹中労の『美空ひばり』(1965)は、転換の画期をなした。ひばりの歌と存在を大衆文化の正統とみなし、その階級闘争的可能性を論じたからだ。

 五木の小説「艶歌」(1968)も竹中同様、「進歩派」への対抗的発想の上にある。

 物語は、昔ながらの歌づくりにこだわる「艶歌の竜」と、彼を追い落としたい辣腕の制作部長・黒沢の社内対立を背景に、演歌系新人歌手「眉京子」とポップス系新人歌手との新譜販売競争を、物語の主軸に据えている。若いディレクターの津上は、高円寺の人物と「艶歌」に惹かれながら、手段を選ばない暗闘を目の当たりにして会社を去る。企業社会の非情に男たちの欲望と意地をからませながら、五木がそこかしこで語るのは、大衆の歌「艶歌」の普遍性である。

 輪島が「ある種の知的な操作」と呼んだのは、竹中や五木のこうした流行歌の描き方である(竹中は「艶歌」という言葉を使っていない)。さまざまな要素を呑み込んで、60年代にゆるやかなスタイルを形成しつつあった歌謡曲のひとつの支流を、彼らは日本の歌の――日本の民衆の歌の――本流として発見したのである。これもまた、評論家・大塚英志のいう「偽史」であることはまちがいない。

 「偽史」については、『「幸せ」の戦後史』(2013)で述べたので詳しくは書かない。要点をひとつだけ記しておくなら、それはありえたかもしれない選択肢への言及である。戦後史の多様な可能性の中から、「今あるこの戦後」が選ばれたことによって、「その他の戦後」が排除された。「偽史」とは、こうした選ばれなかった歴史への想像力であり、未発の可能性へのノスタルジーといっていいだろう。70年代以後のサブカルチャーや村上春樹の

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