2014年02月12日
早くも今年のクラシック音楽界最大の事件となりそうな、佐村河内守事件について2月10日現在までの報道で得た情報をもとにした、私なりのまとめである。
私は「クラシックジャーナル」という専門誌を作っているし、それよりも何よりも、クラシック音楽のファンだ。しかし、自分で演奏するわけでもないし、作曲もしないというか、できない。そういう立場で、以下は書かれる。
「HIROSHIMA」はCDが2011年7月に日本コロムビアから発売された。日本人作曲家のクラシックの新作がCDになること自体は珍しいことではないが、大規模なオーケストラ曲の新曲は珍しく、コロムビアもかなり宣伝に力を入れていた。しかし、私は買わなかった。
それは胡散臭いと思ったからではない。「感動の美談」が嫌いなのだ。そのことで損をすることも多いのだが、今回はそれが幸いしたというだけにすぎない。オリンピックをはじめとする本当の美談の数々にも、私はどうも感動できない。
そうは言っても、クラシック音楽を聴くことが仕事でもあるので、2011年暮れに、1年間を総括する座談会をやることになった際に「HIROSHIMA」をCDで聴いた。
その座談会での私の発言は、「クラシックジャーナル」045号(2011年12月)に載っている。同席者の「とんでもない曲です」「これはすごいなと思います」「後期ロマン派のいろんな作曲家のエッセンスみたいなものが、ごちゃまぜになったみたいな」という発言を受けて、
「たしかに、ドビュッシーだったり、ショスタコーヴィチだったり、マーラーもあるか――いろいろでしたね。とても、いまの曲とは思えない」と言った。
そして、
「コロムビアさんが、かなり力を入れて作り、販売も熱心でしたから、(年間売上の)トップ10にも入り喜んでいるでしょう」と、セールスについての感想だけを述べた。曲の評価をしなかったのは、いま思えば、無意識の防御本能からである。
というのも、私はこの発言にもある「いろんな作曲家の要素がある」「いまの曲とは思えない」を否定的に考え、本当は「なんで、こんな曲をいまさら作って、売るのか」と否定的だった。
しかし、当時すでに佐村河内守はクラシック音楽界の久しぶりの期待の星で、何よりも障害者だったので、「批判してはいけない」という空気になっていた。私にもそれくらいの空気は読めるので、この程度の発言に留めておいたのだ。
同じ号では、コロムビアで、「HIROSHIMA」のプロデューサーでもある岡野博行氏にもインタビューした。聞き手として、
「『HIROSHIMA』は当然、原爆、核を意識せざるをえない作品ですが、原発事故で改めて核、原子力を考えざるをえなくなった年に出たのは、もちろん、偶然なのでしょうが、なにか大きなものの意思も感じますね。CDにすることは、震災前から決まっていた話ですね」
と質問している。
岡野氏の答えは、「そうです。去年(2010)から始まっていた企画です」というものだった。
私は数年前から『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の「音楽」の項目を担当しているのだが、2013年暮れに出て現在発売中の「2014年版」には、まず、トピックとしてこう書いた。
●クラシック音楽界に、久々に大ヒット曲が生まれた。前年のこの欄には「クラシックは新しい作品が話題になることはほとんどないジャンルだ」と書いたが、今年は新作が話題になったのである。日本人作曲家・佐村河内守作曲の交響曲第一番『HIROSHIMA』で、CDとしては2011年の震災後直後にリリースされ、じわじわと売れていたが、2013年になってブレイクし、クラシックとしては異例の17万枚を超えるベストセラーとなっている(6月現在)。佐村河内は13年には新曲としてピアノ・ソナタ第2番を完成、発表した。『HIROSHIMA』はベートーヴェンやマーラーを思わせる時代錯誤な交響曲なのだが、それが逆に新鮮なものとして受け止められ、支持されている。いわば、「現代音楽」への異議申立てである。
そして、「注目語」として「佐村河内守」という項目を立てて、こう書いた。
●佐村河内守 クラシック作曲家(1963~) 広島に生まれた。両親とも被爆者。4歳から母親にピアノを教えられ、10歳でベートーヴェンやバッハを弾いたと伝えられる。子供の頃から作曲家を志望し、独学で学んだ。17歳で原因不明の聴覚障害を発症。ロック歌手として活躍した時期もあり、また、映画音楽やゲーム音楽も手がけ、ゲームソフト『鬼武者』(1999)の音楽では注目された。だが、この時点で完全に聴覚を失う。ベートーヴェンの時代のような交響曲の作曲家になろうと決意しなおし、2003年に交響曲第一番『HIROSHIMA』を完成させた。「ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど、ロマン派シンフォニストの系譜を受け継ぐ長大なシンフォニー」で、「被爆二世である佐村河内の出自が反映された自伝的作品」と、CDの宣伝コピーに書かれている。ロマン派の作風であることは確かだが、模倣にすぎず、21世紀のいま、こういう曲が書かれる意味はないとの批判もある。だが、こうした批判も想定した上での、確信犯的・戦略的な時代錯誤とも受け取れる。NHKが放送してからは、「時の人」となり、CDとコンサートでは、あざといまでの販売プロモーションが展開されている。本当の真価が問われるのはブームが終わってからだ。
まさか、こういうかたちで「真価が問われる」とは思っていなかった。
さて――
「クラシック音楽」のなかの一ジャンルとしての「現代音楽」と、「現代の音楽」とは概念が異なる。「現代の音楽」とは、まさに「いまの音楽」なので、ロックもポップスも演歌も何もかも含まれる。
「現代音楽」はこれも学術的な定義はややっこしいが、1950年代あたりから始まった、調性のない、リズムが一定でない、不協和音、メロディがあるのかないのか分からない――そういう、「素人が聴いても分からない音楽」のことをいう。芸術的価値があると考えている人が一定数いるので、いまもそういうものは作られているが、興行的価値はゼロと言っていい。
しかし、バッハから、モーツァルト、ベートーヴェンを経て、シューマンやメンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、あるいはドヴォルザークやチャイコフスキーといった「クラシック音楽」の系譜の現時点での到達点は、そういう「現代音楽」にこそある。
音楽大学で作曲の勉強をした人であれば、ベートーヴェンのような曲、マーラーのような曲を、とりあえずは書くことはできる。しかし、そういう音楽は、「現代音楽」としてはまったく評価されない。模倣にすぎないからだ。芸術も科学と同じで、常に「過去」を乗り越えて進歩しなければならない。
それに、とくに大編成のオーケストラを必要とする曲は、発表(演奏)するだけでも、オーケストラへのギャラや会場費というコストが数百万円はかかるだろう。たとえ書いたとしても、演奏される機会はない。
だが、「昔ながらの交響曲の新曲」は、実は巷には溢れている。
たとえば、映画音楽がそれだ。日本映画で有名なところでは、『砂の器』で主人公が作曲して劇中で演奏される、「宿命」という曲がある。菅野光亮によってこの映画のために作曲され、「ピアノと管弦楽のための組曲『宿命』」としてコンサートで演奏されたこともある。
これは「現代の音楽」ではあるが、「現代音楽」ではない。サントラ盤も当時としては売れ、多くの人が感動した音楽だが、これが日本のクラシック音楽史に刻まれるかというと、せいぜい、欄外に「映画音楽『宿命』が話題になった」と書かれる程度だ。
映画では、「宿命」はクラシック音楽の新曲という設定だが、クラシック音楽界では、ああいう曲は、「クラシック音楽の新曲」とは認められず、あくまで、映画のための商業用音楽である。これは差別とか蔑視ではなく、区別だ。違うものなのだ。どっちがいいとか偉いとか価値があるとかという問題ではない。
「宿命」に限らず、たとえば「スター・ウォーズ」の音楽も作曲者のジョン・ウィリアムズが組曲に編曲したものを著名オーケストラがコンサートで演奏することがあるが、あくまで映画音楽としてファミリー向きのコンサートなどで演奏するだけで、ベートーヴェンやマーラーの曲と同列に扱うことはない。
ゴーストライター問題は脇におくが、佐村河内氏は、そうした現代の音楽界への異議申し立てとして、「自分はあえて昔ながらのロマン派風の交響曲を時代錯誤と分かっているけど、書くのだ」というようなことを言って登場した。それはそれでひとつの考えである。だから、そういう考えで書いて、それが売れるのなら、それはある意味でクラシック音楽業界が見逃していたマーケットの開拓である。
しかし、このような時代錯誤な作曲活動は、
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