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[5]第2章「転がる卵のように――集団就職と戦後都市(1)」

駅のホームから始まった物語

菊地史彦

 1950年代の半ば以後、桜の咲く頃になると、東京や大阪など大都市の駅には、中学を卒業したばかりの少年少女だけを乗せた列車が次々に到着した。表情にあどけなさの残る彼らは、東北や九州などの農村から働くためにやってきた15歳だった。職安の係員や教師に引率されて、固い面持ちで駅に降り立つようすは、マスメディアによって大きく報道され、人々の目を引いた。

青森からの集団就職の列車が上野駅に着き、雇い主と対面=1959年拡大青森からの集団就職の列車が上野駅に着き、雇い主と対面=1959年
 駅のホームには、彼らを採用した雇用主たちが、幟や旗を持って待ち受けている。数十人から数百人に上る詰め襟やセーラー服姿の集団は、そこで雇用主に引き渡されてばらばらになり、各々の職場へ向かう。ある年代以上の方なら、どこかで見たことのある「集団就職」の光景である。

 2005年公開の映画『Always 三丁目の夕日』(山崎貴監督)の開巻直後のシーンを記憶している方も多いだろう。青森県の中学校を卒業した星野六子(堀北真希)が、職安の係員に先導されて、級友たちと一緒に上野駅17番線ホームに降り立つシーンだ。時代設定は1958年である。

 六子を迎えにきた鈴木オートの社長、鈴木則文(堤真一)は、ダブルのスーツに中折れ帽をかぶり、まるで大企業の社長然としているが、乗ってきたのはぼろぼろのオート三輪。乗りつけた「有限會社鈴木オート」は、町の自動車修理工場で、六子は描いていたイメージとのギャップに愕然とする。

 実際の集団就職でも、彼女と同じような落胆を味わった少年少女は少なくなかった。それゆえ、転職する者も多かった。夢破れて郷里に帰った者もいた。ほんの一握りの若者だけが、失意を噛みしめながら、石にかじりつくようにして出世や独立を勝ち取った。中卒が「金の卵」だったのは、1955年から65年までの10年間にすぎないが、この時期に生まれた膨大な出郷者たちの物語は、戦後の若者像のひとつの元型を形成している。

 「集団就職」の背景には、第一に農村の過剰人口問題があった。敗戦前後は帰郷家族の増加が過剰人口に輪をかけたが、より根深いのは古くからの「二三男問題」だった。近世以来、農村では土地を長子にのみ相続させて分散を防ぐ習慣であったから、次男以下は他の職業に就くか、男子のいない農家への婿入りを選択するしかなかった(それらの道も閉ざされた場合は、長男の下で雇い人のような地位で働くしかなかった)。「二三男問題」は、長いあいだ農村に閉塞感をもたらす大きな社会問題だった。

 それが、50年代半ばに風向きが変わる。農村の人口が減り、都市への本格的な流出が始まるのだ。特に若年層の農業就業率が激減していく。たとえば、20~24歳の年齢層では、男子の場合、55年の83.6万人から65年の23万人へ、ほぼ4分の1に減った。女子の場合も、101.1万人から30.4万人へ、7割の減少を示している。15~19歳の階層では、進学率の上昇もあったせいで、この傾向はさらに顕著であり、男子は4分の1、女子は5分の1にまで急減している。

 いうまでもなく、流出を促したのは都市が生み出す新しい雇用である。戦後の復興期から高度成長期にかけて、産業構造の変動を伴う経済活動の拡大は、大量の労働力需要を生みだした。

 まず、繊維工業や金属機械工業を中心に、大量生産の設備を整えた工場が多くの若年労働者を求めた。また、景気の拡大に加え、工業分野の雇用拡大のあおりを食らって、都市部の小売店や外食店などの流通・サービス業分野は、深刻な人手不足に見舞われた。広範な分野で、安価で使いやすい労働力へのニーズが高まったのである。

 都会には、とにかく仕事があり、活気がある。多くの場合は経済的な理由で進学を断念した中学卒業生が、街へ向かったのは自然ななりゆきだった。その結果、都市は出郷した若者であふれ、都市生活者の一大勢力になっていく。他方、60年代初頭の農村では人手不足が語られるようになる。「二三男問題」に代わって、「村に残る者の孤独」、すなわち「長男問題」さえ持ち上がるようになる。

 想像もしなかった早さで、逆転が起きたのである。

 私の前著『「幸せ」の戦後史』(2013)でも触れたように、50年代後半、春日八郎や三橋美智也の望郷歌が、流行歌の重要なカテゴリーとなった背景がここにある。また、フルサトへの郷愁の中に出郷者の密かな優越感が忍び込むのも、ここに理由がある。望郷歌に頻出する残された者(たとえば村で男を待つ娘)への愛惜は、村を捨て、ようやく都会生活者への転身を果たそうとする者たちの両義的な心の動きだった。

集団就職の衝撃――罪悪感と加害者意識

 「集団就職列車」がはじめて走ったのは、1954年4月5日である。その春中学を卒業した622人を乗せ、青森駅から21時間かけて東京の上野駅に着いた。列車の仕立ては県(62年からは交通公社)が企画し、国鉄が協力した。60年代に入って、「金の卵」の主役は中卒から高卒に代わり、全盛期を過ぎた。最後の「集団就職列車」は1976年だったらしい。

 ちなみに、「集団就職」は「集団就職列車」に由来する言葉のようで、確たる定義がない。

 加瀬和俊の『集団就職の時代』(1997)によれば、本来の意味での「集団就職」は、就職地が同じ新卒者たちが、同じ列車でやってくるということだけでなく、「集団求人」に応じて新卒者が集団的に就職する、という関係を意味していた。

 「集団求人」は、1954年度に、「東京都渋谷公共職業安定所所管内の商店連合会が傘下20余店の求人60人をとりまとめて、同所に求人申し込みし、同所が新潟県高田公共職業安定所とタイアップして、集団的職業紹介を実施した」事例に始まる(『職業安定広報』、1959年7月号)。

新潟からの集団就職を受け入れた桜新町商店会で集団入店式がおこなわれた=1956年3月拡大新潟からの集団就職を受け入れた桜新町商店会で集団入店式がおこなわれた=1956年3月
 求人活動を行なったのは、世田谷区の桜新町商店会で、これに応えて、55年3月26日、新潟県の15人が夜行列車で上京した。以後、この商店会は集団就職で新卒を採用し続け、62~63年には、百数十名に達していたという。

 桜新町に住んでいた長谷川町子は、朝日新聞の連載マンガ「サザエさん」(1956年3月29日付)で、このテーマの作品を描いている。

 まず、上野駅に着いた少年たちに、ラジオ局がインタビューしている。「どこにおつとめするの」と聞くと「じてん車やです」。

 次に自転車店の主人にもマイクが向けられると、「温かく家族どうようにしたい」と答えるうちに話が大きくなり、「できれば世界一周をさせてやりたい」と発言してしまう。4コマ目では、自転車店の主人が奥さんにたしなめられている。

 長谷川は、自分の住む町にやってきた年若い労働者に強い印象を受けたのだろう。また、長谷川

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。