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[6]第2章「転がる卵のように――集団就職と戦後都市(2)」

差別的な就職先

菊地史彦

 年少労働者の離職率はかなり高かった。1964年の調査では、30~99人規模の事業所で4人に1人前後が、就職後1年以内に離職している。これ以下の規模の零細工場・商店で雇われた住み込み労働者では、さらに高い離職率だったにちがいない。

 小説家の平林たい子は、新妻の記事の5年後、同じ『家の光』(1962年9月号)で、集団就職した年少労働者の離職問題を採り上げた。この雑誌ですら、「東京で明るく働く少年たち」がすでに幻影であることを隠し通せなくなっていたのである。

 平林はこう書いている。

 自分を雇った商店や工場の規模の小さいことを気にして、ここにいても、自分の将来はひらけていかないように思いつめる。そのうえ、まだたまにはひどく頭の古い雇い主があって、住み込みの小(ママ)店員に子どものお守りや庭の掃除をさせたり、勤務時間を約束するよりも、勝手にながく延長することもないではない(「集団就職」、『家の光』1962年9月号)。

 こうした現実を見れば、規模の小さな事業所ほど――賃金が急激に上昇したにもかかわらず――離職率が高くなるのはやむをえない、「自分の将来が開けていかないように思いつめる」少年少女たちに忍従ばかりを強いるわけにはいかない、と論じた。

 ただし、ここで興味深いのは、平林が、離職の発生しやすい零細事業所に子どもを入れるのは「ごく、生活に余裕のない家庭である」と書き、「少し余裕のある家庭では、当座の収入はなくとも、将来のために、みっちりと技術を身につけてやることを考えるものだ」と述べているところだ。

 これは、現実の一端を言い当てているものの、構造的な認識には至っていなかった。その事情は以下のようなものだ。

 のちの研究によれば、集団就職で都市へ出た者たちの就職先には、大きな偏りがあった。

 高度成長期の前半、中卒労働者は、多くが製造業の現場に就業したが、実はその比率は地域によってかなり異なっていた。

新中卒者の集団就職 東京都葛飾区先輩の仕事を学ぶ集団就職の新中卒者たち=1962年3月、東京都葛飾区
 当時の花形である金属機械工業で見ると、東京都の中卒就職者では40パーセントを超え、女子でも30パーセント近いのに対し、農村的府県の出身者ははるかに低い比率である(男子の場合、新潟県17・1パーセント、秋田県10・7パーセント、鹿児島県11・7パーセント)。

 農村的府県の地元に、金属機械工業が少なかったせいもある。ただし、大都市に出て就職した地方出身者が、大都市出身者に阻まれて、彼らとは異なる産業に従事せざるをえなかった可能性も大きいのだ。

 機械工業は戦後、機械化・合理化が進んで単純労働分野が広がり、若年の不熟練労働者の求人ニーズが急速に高まった。これに呼応して、中卒者側の人気も高まった。1961年の東京都の調査では89パーセントが工員志望だったという。

この日だけは部長さんのお手盛りの食事 1962年3月、東京都台東区上京して雇い主と対面、この日だけは部長さんのお手盛りの食事=1962年3月、東京都台東区
 すると大都市圏に集中する機械工業の雇用主は、当然ながら工場所在地の近くに在住する求職者を採用する。宿泊施設や日常生活の世話の心配をしないですむからだ。

 この結果、地方出身者は、大企業主導の機械工業には入り込めず、都市圏出身者が就業しようとしない商店、軽工業、雑業的分野へ入っていかざるをえなかった。

 こうして、町工場や個人商店へ連れてこられた若者たちは、劣悪な待遇に不満をくすぶらせた。低い賃金や狭小な住まいはいうまでもないが、彼らの憤懣はなによりも、あてがわれる食事に集中した。とにかく量が足りず、小遣いの大半は空腹を満たす間食に費消されたらしい。

 そのような職住環境に耐え、技術や知識を身につけようと頑張る若者は少数だった。都市には消費文化の兆しがあり、仲間同士の情報交換が離職・転職を誘った。

 「割のいい仕事」は、経済成長の中で泡のように生まれ、消えながら、集団就職した若者たちの群れを一人ひとりに分け、流動を促したのである。

 平林たい子が推測したように、貧困家庭が金欲しさに零細事業所へ子どもを送り込んだというのは、事実の一端ではあるが、全体の構造ではない。集団就職の仕組みそのものが、早期離職を生む要因を最初からはらんでいたのである。

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