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「ネオレアリズモ」の古典、ロッセリーニの『ドイツ零年』が東京・渋谷で上映

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回は東京・シネマヴェーラ渋谷の特集、「ナチスと映画II」の1本として上映される、イタリアの名匠ロベルト・ロッセリーニの『ドイツ零年』(1947)を取り上げたい。

 なぜ今さらこの古典の名作なのか、と言われそうだが、「古典」は何度見ても新たな発見があるし、また、ひょっとしてこの傑作を未見の読者もいるかもしれないので、ぜひこの機会にピックアップしておきたい(本特集で上映される他の23本も、ロッセリーニ『ロベレ将軍』<1959>、ルビッチ『生きるべきか死ぬべきか』<1942>、ヒッチコック『汚名』<1946>を含む、必見の作品ばかり)。

 周知のようにロッセリーニ(1906~1977)は、イタリアの「ネオレアリズモ(新しいリアリズム)」の旗頭の一人である。そして、第2次世界大戦末期のナチス・ドイツ占領下のローマを舞台に、対独レジスタンスの闘いを描いたロッセリーニの『無防備都市』(1945)が世界的に注目を浴びて以来、「ネオレアリズモ」という呼称は広まり、映画史的に定着するにいたった(『ドイツ零年』は、『無防備都市』『戦火のかなた』<1946>とともに、ロッセリーニの“戦争三部作”)。

 「ネオレアリズモ」は大まかに言って、劣悪な製作状況のもとでのドキュメンタリー的な映画づくり、すなわちロケーション撮影の多用、素人俳優の起用、貧困や労働争議や戦争といった社会的現実の主題化によって、特徴づけられる。

 ただし、実際にはスタジオ撮影も取り入れられ、アンナ・マニャーニ(『無防備都市』)ら人気俳優も出演していたが、しかしともかく、「ネオレアリズモ」と呼ばれた作品群は、被写体のリアルな<即物感>をカメラに写しこもうとする――従来の劇映画の人工的な作風とは対照的な――、その斬新なタッチを際立った特徴とする。

 またそれゆえ、「ネオレアリズモ」は、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの“震源地”の一つとなり、ロッセリーニは「ヌーヴェル・ヴァーグの父」と呼ばれている。そして、初期ヌーヴェル・ヴァーグの最高傑作の1本、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)は、彼自身、『ドイツ零年』に多くを負っていると語っている“子ども映画”だ。

 さらにトリュフォーは、「ジャン・ヴィゴ(29歳で夭折したフランスの天才監督)をのぞけば、子どもの世界を、センチメンタルなやさしさや涙なしに描くことのできる映画作家はロッセリーニだけである」と述べている(この発言はむろん極論であり、我が山中貞雄、小津安二郎、成瀬巳喜男、相米慎二も“子ども映画”の名手だったが)。

 トリュフォーの言うとおり、まさしく『ドイツ零年』のロッセリーニは、連合国軍の空襲によって廃墟と化した第二次大戦直後のベルリンを舞台に、貧困にあえぐ一家の末子、12歳のエドムント少年の悲劇を、観客の安易な感情移入を許さない、観察するような<即物的>なタッチで淡々と描いている(しかしそうした「ドキュメンタリー・タッチ」ゆえに、かえって、見る者は感傷とは無縁の鮮烈なエモーションやショックを覚える)。

――ほっそりとしたエドムント少年(エドムント・メシュケ)は、間借りの部屋に家族とともに住んでいる。父(エルンスト・ピットシャウ)は病身で、姉(インゲトラウト・ヒンツエ)は、ナイト・クラブで外国人から貰った煙草を売って家族の生活費の足しにしている。兄(フランツ・グリューガー)はといえば、元ナチ党員ゆえ職につかず家に閉じこもり身を隠しているが、ともかく一家は、3人分の食糧の配給で4人が食べていかなければならない。したがって、エドムントも貴重な働き手であった(酷いことに、アパートの家主はエドムントの目の前で、病人ははた迷惑、早く死ねばいいと言い放ち、エドムントの家族を目の敵にする)。

 やがてエドムントは、街でかつての小学校の担任教師だったエニング(エーリヒ・ギューネ)と再会するが、彼は学校を追放されたナチズムの信奉者で、ヒトラーの演説を録音したレコードを闇で売りさばいたり、同性愛者の将軍に少年を斡旋したりしてカネを儲けている(この一見穏やかそうだが、ゲスな感じが表情に見え隠れする悪党を、ロッセリーニはじつに巧みに造形している)。

 そしてエニングは、「弱い者は強い者に滅ぼされる。弱い者を犠牲にする勇者が必要だ。生き延びるためには」という弱肉強食思想をエドムントに吹きこむ。エドムントは、劇薬を入れた紅茶によって父を毒殺し、自らも廃墟の階上から投身自殺してしまう――。

 だが『ドイツ零年』を、戦争によって荒廃した大人の心が、一人の子どもを死に追いやる悲劇だと要約して事足れり、とするのは安易にすぎる。そうした要約はべつに間違いではないが、要約はしょせん要約でしかない。なので以下では、『ドイツ零年』の、物語の要約ではとらえられないフィルムの肌触りのようなものを、いくぶんなりとも言葉にしてみたい。 ・・・ログインして読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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