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 「読書しない学生への本の選び方」という設問が、いかにも「朝日」的だ。そもそも、本を読むのはいいことなのか。

 私は大学で映画を教えている。映画を評論し、脚本を書き、演出することができる学生を育てるのが目標だ。そこで問題なのは、本を読むか否かではなくて、自分の頭で考えることができるかである。深い芸術的体験ができるか、そして文章や映像で他人に感動を与えられるかである。

 人がこんなに本を読むようになったのは、もちろんルネサンス以降、印刷の普及からだろう。聖書の印刷に始まって、雑誌や新聞ができ、小説が一般に出回るようになった。

 ところが19世紀末の映画の発明以来、人間は映像によって語られる物語の虜になった。かつて物語は小説で楽しむものだったが、20世紀になって小説が難解になると同時に映画が物語を取り込む形で発展し、テレビになり、ゲームやネットになった。いわばスクリーン文化が活字文化を押しのけた。これ自体は悪いことではない。というより、活字文化は近代のほんの数世紀のことだから。

 人間的体験ということを考えると、この2、30年の日本社会全体での言葉を介したコミュニケーションの不在がある。外国人留学生がよく言うが、今の日本は日本語ができなくても全く生活に不自由がないらしい。確かにコンビニやファミレスでは、自分の好きなものを手に取ったり指さしたりすれば十分だ。活字どころか話す必要さえない。

 彼らは、目の前にあるものから無言で選ぶ。人前で発表することは苦手だし、議論は避ける。活字を読むことへの抵抗感はもっと大きい。目の前に見えるものしか信じないのだから、活字から自分で想像することは別次元の話だ。

 しかしこれまた文明の問題かもしれない。あるいは我々が作り上げた資本主義社会の必然だろう。

 実は私が一番悩ましいのは、この10年間で進んだネット文化を基盤とした「シェア」という発想の登場だ。本は買わずに図書館で読む。あるいはネットで読む。これは本に限ったことではない。映画学科の学生さえ、映画館に行かずにDVDをレンタルする。DVDを買って何度も見るという考えももちろんない。そして芸術的体験は薄っぺらになる。

 モノを買わずに借りて済ます人間が増えたことは、資本主義的にも文化の質から考えても大きな問題だ。もちろん車も家も服も売れなくなるわけで、産業界には少子化以上に大きな痛手だろう。

 本や映画で考えると、「買う」と「シェア」では受容の仕方が大きく異なる。買って何度も読んだり線を引いたりする本とのつきあい方は、借りたりネットで読んだりすることに比べて何倍も濃厚だ。ネットで得られるものは情報あるいはネタでしかない。映画館で見る映画は、テレビやスマホで見るものとは、全く別の体験となる。

 その違いを学生にどうしたらわからせるか。私が実践して成功の実感があるのは、

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筆者

古賀太

古賀太(こが・ふとし) 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

1961年生まれ。国際交流基金勤務後、朝日新聞社の文化事業部企画委員や文化部記者を経て、2009年より日本大学芸術学部映画学科教授。専門は映画史と映画ビジネス。訳書に『魔術師メリエス――映画の世紀を開いたわが祖父の生涯』(マドレーヌ・マルテット=メリエス著、フィルムアート社)、共著に『日本映画史叢書15 日本映画の誕生』(岩本憲児編、森話社)など。個人ブログ「そして、人生も映画も続く」をほぼ毎日更新中。http://images2.cocolog-nifty.com/

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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