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[9]第3章「端境期のセヴンティーン(1)」

安保と三池――1960年のふたつの軸

菊地史彦

 1960年は、春から、厳しい対立と衝突が続発した。

 1月15日、新安保条約調印のために渡米する岸信介首相の一行は、午後2時になって、出発時刻を翌日の午前8時と発表した。全学連主流派は、訪米を阻止すべく羽田空港突入を計画していたが、想定していた翌日の午後10時が大幅に繰り上げられたため、多くの大学では出発が遅れた。ほぼ唯一、泊まり込み態勢を取っていた東大本郷が、ただちに第一陣の400人を出発させた。彼らを乗せたすし詰めのバスは、この日の午後6時には弁天橋の検問所を難なく通過し、続く2台も空港へ侵入した。

 この中に樺美智子もいた。

新日米安全保障条約の調印に反対する全学連の学生たちが、岸信介首相の訪米を阻止しようと、羽田空港のロビーを占拠しだ=1960年1月16日拡大新日米安保条約の調印に反対する全学連の学生たちが、岸信介首相の訪米を阻止しようと、羽田空港のロビーを占拠しだ=1960年1月16日
 後続の東大駒場、法政、明治、慶應、日大、金沢、新潟、女子美、お茶ノ水などの学生は、稲荷橋で警官隊ともみあいながら、そのうちの数百名が警戒線を突破して、先発隊と合流した。

 空港ロビー内で集会を開いた学生たちは、その後、バリケードをつくって食堂に籠城した。遺稿集『人しれず微笑まん』の口絵には、座り込んでカメラに視線を向ける樺が写っている。ニット製のように見える濃い色の帽子を被った彼女の表情からは、強い緊張感が伝わってくる。

 日付が変わって16日午前3時半、警視庁第四機動隊がバリケードを撤去し、中に突入した。すでに“面の割れていた”樺は逮捕された。岸首相の一行は、裏道から空港に入り、米国へ飛び立った。

 1月25日、三池鉱山は事業所をロックアウトし、福岡県の三池炭鉱労働組合は無期限ストライキに入った。石炭最大手の企業と、当時最強の組合との激突だった。

 両者の闘いは、前年の二度にわたる合理化をめぐるものだった。

 59年1月の第一次合理化では、三鉱連(三池鉱山を構成する全国6鉱業所の労働組合の連合組織)に対する6000名の希望退職募集によって、それなりの「結果」が出た。頑強に抵抗したのは、ひとり三池労組だけだった。この組合は、53年の長期闘争「113日の英雄なき闘い」以後、地道な職場闘争を通じてさらに力を蓄え、解雇撤回への自信を持っていたからだ。

 しかし、8月の第二次合理化では、4580名の解雇をめぐって、三池労組は三鉱連の中でも孤立し、そのようすを見て取った会社は、同労組の活動家300人を含む2210名の指名解雇を通告した。労使交渉の決裂、中労委のあっせん不調を経て、12月2日には、1492名に退職勧告がなされた。その半数近くが、組合の分会長、代議員、職場委員だった。会社側は、「生産阻害者」に対する排除の意向をまったく譲ろうとしなかった。労使の対立は、そのまま年明けの正面衝突へ至ったのである。

 この後、安保と三池をふたつの軸に、60年は激動の中に突入していく。

 2月5日には、新安保条約批准案が衆議院に提出された。この第34通常国会は「安保国会」と呼ばれたが、前年11月27日の全学連国会突入事件の責任を取って、議長と副議長が交替し、新たに清瀬一郎と中村高一が正副議長に就任した。

 新安保条約をめぐる論戦は、2月19日からの衆議院安保条約特別委員会を舞台に始まった。社会党は、安保特別委のメンバーに論客を揃えた。左派の黒田寿男をチーフに、岡田春夫、成田知巳(のち委員長)、飛鳥田一雄(同)、石橋正嗣(同)、松本七郎、横路節雄らが、綿密な調査をもとに鋭い質問をぶつけ、院外の反安保闘争を爆発させる導火線の役目を果たそうとした。

 その戦術は、一方は、岸の戦前からの来歴をなぞって“安保は戦争への道”を印象づけるもので、他方は、官僚から入手した極秘資料を使って、安保条約の実行上の細部の不備や矛盾を突くものだった。岸首相はこうした「院内闘争」に対し、露骨に不快感をあらわした。

 3月23日、浅沼稲次郎は、第17回社会党臨時党大会の委員長選挙で、河上丈太郎を19票の僅差で破り、鈴木茂三郎に次ぐ第三代委員長に就任した。社会党は、すでにこの年1月、右派・西尾末広の「民主社会党」の結成によって分裂したばかりだった。

 その引き金になったのは、前年訪中時の浅沼の演説である。第二次訪中団団長の浅沼は、1959年3月12日、北京で「米帝国主義は日中の共同の敵」と演説し、自民党だけでなく、西尾をはじめとする社会党右派からも批判を招いていた。他方、演説内容の修正や撤回を頑としてはねつけた浅沼には、しだいに左派の支持が集まった。「万年書記長」と呼ばれていた浅沼は、左派に押されて委員長選挙に出馬し、当選したのである。

 新委員長の「先を見る目」を疑う者もおり、愚直な「庶民派書記長」を過去の遺物と見る向きもあった。しかし、この後押し寄せた反安保の大波の中で、浅沼は水を得た魚のように闘いの前線へ出ていった。

 4月初旬、全学連主流派を指導する共産主義者同盟(ブント)は、第4回大会を開いた。書記長の島成郎(しましげお)は、用意した議案を脇においたまま、口頭で報告を行なった。胸のうちにあった「独断的見解」を、そのままぶつけようとしたのである。

 島はブントを、「権力を奪取することをはっきり目標とする党」と位置づけていた。広範な大衆のエネルギーが爆発したとき、「あらゆる意味で鍛えられた真のプロフェッショナルな革命家が3000名存在するならば権力獲得は不可能ではない」。彼は、安保闘争を「生半可な『反対闘争』」に終わらせず、権力奪取の予行演習のようなものと考えていた。

 樺はこの時、ブント本郷学生細胞の文学部班キャップであり、文学部学友会の副委員長だった。羽田闘争の大量検挙と内部分裂でガタガタになった組織の立て直しに、必死に取り組んでいた。仲間の目に映る彼女の姿もがらりと変わる。発言が扇動的になり、演技的になった。彼らは、「樺さんが神がかってきた」と噂し合った。

三井三池争議で、第2組合員が入構した後、警官隊ともみ合う第1組合員拡大三井三池争議で、第2組合員が入構した後、警官隊ともみ合う第1組合員=1960年4月20日
 三池では、組合側が困難な局面を迎えていた。

 3月15日、三池労組の臨時中央委員会で、254名の中央委員のうち69名が組合の方針を批判し、その方針について、組合員全員の無記名投票を要求した。中央委員会はその提案を拒否、同委員会の採決で十分とした。反対派は2日後、3065名をもって第二組合を結成した。

 上部団体の三鉱連にも動揺が走った。もともと三池労組に批判的だった三鉱連は、第二組合の結成を見て、4月初旬に予定していた三鉱連-炭労の統一スト指令を返上したのである。「三池も分裂した。これ以上は組織がもたない。しかも(三池以外の)われわれはすでに合理化を消化した」とスト返上の理由を挙げた。三鉱連がストを中止する以上、ゼネスト指令を出した炭労も手が出せない。

 3月24日、会社は第二組合を団体交渉の相手方と認め、同組合員に対するロックアウトを解除すると通告した。現地はにわかに緊迫した。第二組合は強行就労を行ない、両労組員の衝突が各所で起きた。29日には暴力団員が四山(よつやま)鉱を襲い、正門でピケを張っていた三池労組員、久保清を刺殺した。

久保さんの合同葬が行われる4月5日を前に、東京では総評が4日、「暴力、殺人の三池の首切り絶対反対」と安保批准阻止のパレードを繰り広げた。写真は、パレード出発前に殺された久保さんの写真を見る参加の社会党国会議員団=196044東京都港区芝公園、総評会館前拡大総評が実施した「暴力、殺人の三池の首切り絶対反対」「安保批准阻止」のパレード出発前に、殺された久保清さんの写真を見る社会党国会議員団=1960年4月4日、東京都港区の芝公園付近
 久保刺殺事件によって、総評をはじめとする全国規模の支援が巻き起こったが、時すでに遅かった。4月6日に出た中労委のあっせん案は、指名解雇を事実上認めるものだった。炭労臨時大会は苦悩のすえ、あっせん案を拒否するが、三鉱連は大会から退場し、会社と妥結した。

戦後民主主義の曲がり角――「豊かさ」が近づくなかで

 4月に入ると、国会の中も外も慌ただしくなってきた。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです