2014年05月21日
目下、恒例のカンヌ映画祭が開催中だ。思えば2013年、同映画祭の最高賞パルムドールを受賞したのが、レズビアンの恋愛を描いた『アデル、 ブルーは熱い色』であった。
スティーブン・スピルバーグが「映画で見た最も美しい愛の物語」と絶賛した本作は、現在、日本全国で公開中である。監督の名はアブデラティフ・ケシシュ。ちょっと覚えにくいが、映画ファンには久々に登場した現代フランス映画のビッグネームだろう。
ケシシュ作品は長編5作目でやっと日本に配給されたわけだが、本国での評価は「現代フランス映画、最高峰の監督」と、以前から非常に高いものだった。彼の名声は、水かさが増し、やがて決壊する堤防のようにいずれ世界に広がるものと、多くの人が予想していたはずだ。
そしてようやく『アデル、 ブルーは熱い色』が公開され、日本でも本作の紹介記事が多く出回っているわけだが、ケシシュ本人についての記述は、まだまだ足りないかもしれない。そこで今回、アブデラティフ・ケシシュとは一体どんな監督なのか、そして彼が映画界に存在する意義はどの辺りにあるのかについて思いを巡らせてみたいと思う。
まずケシシュ作品の特徴のひとつに、人物を執拗に追い続けるカメラというのがある。先達の監督モーリス・ピアラやジャック・ドワイヨンのように、ある真実の瞬間を求め、しつこいくらいに貪欲に追いかけるというものだ。
ヌーヴェル・ヴァーグの流れを汲む監督のように、理論武装も得意な洗練された"知性派映画"とは違って、作り方としては、もっとずっと泥臭い。欲しい絵が撮れるまで、役者に何度もテイクを強いるのだ。ふだんは温厚で口べたにも見えるケシシュだが、ひとまず撮影に入れば、たちまち鬼軍曹と化する。"スポ根系の肉体派映画"とでも呼べそうだ。
それはまるでアニメ『エースをねらえ!』の世界だろう。『アデル、 ブルーは熱い色』の5ヶ月間にわたる撮影期間中、「もっと、もっと」と、役者にきついボールを投げ続けたのが、恐怖の鬼コーチ・"宗方仁"こと、ケシシュである。そしてこのスポ根的試練に耐え続けたのが、主演のふたり、アデル役のアデル・エグザルコプロスと、エマ役のレア・セドゥだった。ケシシュに素質を見抜かれ、主役に抜擢されたアデルは、さながら"岡ひろみ"であり、映画界の重鎮を親族に持つ大金持ちのご令嬢レアは、"お蝶夫人"といったところか。
本作はパルムドール受賞以外に、図らずして多くの話題を振りまいた。
映画祭期間中には、技術スタッフたちが労働条件の過酷さを暴露したし、原作コミックの作者も、自身に謝意を示さぬケシシュの態度に不快感を表明。
また映画のプロモーションの際には、ついに主演のふたりが不満を一気に吐き出した。アメリカでのインタビューで、
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