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[10]第3章「端境期のセヴンティーン(2)」

17歳のテロリスト、山口二矢

菊地史彦

 本章では、1960年という「端境の年」に、若者たちが何に憧れ、何を怖れ、どんなものにつき動かされて、どこへ向かって走ったのか振り返る。端境期ゆえに、彼らは、「これまで」から「これから」へ向かって踏み出し、さらにその一部は、「此処」(こちら)から「彼処」(あちら)へ向かって突出していった。

 「端境の年」の若者たちは、身体の半分を50年代までの「初期戦後」にあずけながら、残り半分を高度成長期の「中期戦後」にもたせかけている。だから、彼らの表情は、「初期戦後」の熱のある朗らかさと「中期戦後」の冷めた暗さの両方を持っている。

 彼らに惹かれるのは、おそらくこの二面性に理由がある。彼らは陽と陰の両方を抱え込んで、かつその矛盾に意識を研ぎ澄ませた世代であるように思える。

 そうした若者の一人が、この年17歳になった一人の少年だった。彼は、1960年の一番有名な「セヴンティーン」、山口二矢(おとや)である。

 山口は、59年5月、赤尾敏が率いる日本愛国党に入党し、家を出た。以来、街頭行動では凶暴とも見える振る舞いを繰り返した。安保反対のデモ隊に殴りかかり、ビラ張りを制止する警察官と本気で揉み合った。10回以上の検挙と釈放を繰り返し、年末には東京家庭裁判所で保護観察に処せられる。

 しかし、過激な行動はやまず、逆に60年に入って急速に拡大する安保反対運動に危機感を抱き、愛国党のやり方に物足りなさを覚えるようになる。5月下旬には、年長の二人と一緒に愛国党を脱した。この脱党はカムフラージュで、山口は左翼陣営の指導者に対するテロをひとりで計画し、実行する機会をうかがっていた。

演説中の浅沼社会党委員長に、刃物をかざして飛びかかる犯人1960101拡大演説中の浅沼稲次郎社会党委員長に、刃物をかざして飛びかかる山口二矢=1960年1012日、東京・日比谷公会堂
 10月12日、読売新聞朝刊で当日行なわれる3党首の立会演説会を知る。会場は日比谷公会堂だった。警備の隙をついて中に入った山口が、壇上に駆け上がったのは午後3時4分30秒。刃渡り1尺1寸の短刀を腰に構えて、相手に体当たりし、その左脇腹に突き刺した。

 社会党委員長・浅沼稲次郎は、その一撃で致命傷を負い、息を引き取った。

 逮捕された山口は、2つの供述調書、数篇の和歌を残して首を吊った。逮捕から3週間後、11月2日午後8時のことだった。練馬鑑別所東寮第一号室の壁には、練り歯磨きで「七生報告 天皇陛下万才」と書き付けられていた。

 私が山口二矢を身近に感じたのは、だいぶ後になって、彼をモデルにした大江健三郎の小説「セヴンティーン」と、その続編「政治少年死す」(ともに1961)を読んだからだ。

 私もまた、17歳になったばかりだった。

 「セヴンティーン」の主人公は、マスターベーションに耽って自己嫌悪にかられ、自身の不細工な身体を呪ってやまない自意識過剰な高校生である。私立高校に勤める教師の父親は、「アメリカ流の自由主義」を標榜しているが、それは息子たちを放任する言い訳にすぎない。自衛隊の病院に勤める姉は、主人公の左翼的な言辞を、保守の正論で叩き潰しにかかる。かつて一家にとって希望の星だった兄は、サラリーマン生活に疲れ、今や模型飛行機づくりに没頭する腑抜けに成り下がっている……。

 そんな家族に囲まれた「おれ」が、17歳の誕生日を迎え、こう呟く。

 ……おれはいつも他人の眼のまえで赤裸の自瀆常習者なのだ、あれをやってばかりいるセヴンティーンなのだ。結局こんなにみじめな気持の誕生日は生まれてはじめてだ、とおれは気がついた。そしておれの一生の残りの誕生日はみな、このとおりのみじめさか、もっと悪いかだと思った(大江健三郎「セヴンティーン」、『性的人間』、1963、所収)

 しかし、「おれ」は級友に誘われ、新橋駅頭で「皇道派」のリーダーの演説を聞くうちに覚醒する。《右》であるという自覚が、「他人どもに見つめられながらどぎまぎもせず赤面もしない新しい自分」をつくりだしていることに気づき、その「堅固な鎧のなかに弱くて卑小な自分をつつみこみ永久に他人どもの眼から遮断したのを感じた」(前掲書)のである。

 大江は、事件直後の新聞や雑誌の記事にひと通り目を通した上で、山口二矢という少年をカリカチュアライズする方法を選んだ。主人公やその家族たちは、戯画化されているものの、メディアで伝えられた情報をもとに造形されている。それは、大江が、右翼による山口の神話化に対抗し、その異様な行動を、平凡で浅薄な17歳の少年の暴発として解釈したかったからだと思われる。

 もっとも、おくての高校生にそんな「読み」ができるはずもない。私は、不格好だがふてぶてしいオナニストの主人公に、「おまえだってそうだろう?」と問いかけられ、心魂を摑まれたように感じた。そして、「右」ではないが、政治少年であることを選ぼうとしていたから、自分の正体が、すでに世間には暴露されているかもしれないと怖れた。

 ただし、そのとき、わずかな違和感はあった。

 ヤマグチオトヤとは、本当にこんな奴なのかという疑問でもある。

 そして「セヴンティーン」を読んだ10年後、沢木耕太郎の『テロルの決算』(1978)で、私は、ほぼ正確な山口の像を入手したと感じた。そこに描き出された少年は、熱狂的な反共思想の持ち主であるものの、ふだんは礼儀正しく、自制心を具え、論理的に自己の行動を説明できる頭脳を持つ少年だった。沢木は、彼を「自立したテロリスト」と認め、その激烈な生き方に少なからぬ敬意を表した。

山口二矢(やまぐち おとや)に腹部を刺され死亡した。山口は犯行の約3週間後、収容先の東京少年鑑別所で自殺した=1960年ごろ撮影拡大山口二矢=1960年ごろ撮影
 この作品以後、彼の像は大きく訂正されていない。

 しかしこのたび、自分で当時の資料にあたってみると、かつて頭をよぎった違和感が、再び蘇ってきた。

 頭の中にあった山口の像が微妙にブレ始めたのである。

 たとえば、残された2つの供述調書では、語られた事実のみならず、文面に表われた大人びた冷静さや論理的な語り口も、山口本人のものと見なされている。でも、それはいったいどこまで本当のことなのか。調書を作成した人間は、何をどこまで加工したのか……。

 今、私は、それを知るすべがない。

 調書作成の実態を洗い出し、生前の山口を知る人々にもう一度、彼の生きた姿を問い直すのは、シンプルかつ手堅い手法である。

 しかし、私はそちらを採らず、彼の同時代人(60年のセヴンティーン)へ目を転じ、彼らの思考と行動を見つめ直すことにした。むしろ、迂回路のようなこちらの方法によって、山口が「敵」とみなしたもの、格闘した「相手」が透けて見えるかもしれないと考えたのである。

 突出した個性は、はみ出しながら、実は時代に深く影響されている。その刻印があまりにも明瞭なので、人は「徴」に気づかず、見過ごしてしまう。山口の場合も、たぶんそれがある。

 彼はまちがいなく破格のセヴンティーンであったが、その感受性の基底は、彼の同期の若者に通じているにちがいない――私は、ヤマグチオトヤ的なるものを探るために、この年に17歳を迎えた人物たちに当たり、次第にひとつの仮説を持つようになった。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。