林瑞絵(はやし・みずえ) フリーライター、映画ジャーナリスト
フリーライター、映画ジャーナリスト。1972年、札幌市生まれ。大学卒業後、映画宣伝業を経て渡仏。現在はパリに在住し、映画、子育て、旅行、フランスの文化・社会一般について執筆する。著書に『フランス映画どこへ行く――ヌーヴェル・ヴァーグから遠く離れて』(花伝社/「キネマ旬報映画本大賞2011」で第7位)、『パリの子育て・親育て』(花伝社)がある。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
アブデラティフ・ケシシュは、6歳の時にチュニジアから南仏ニースに渡った移民である。
ニースといっても、ヒッチコックやルビッチ、ドゥミなどの映画人が描いた、ブルジョワ御用達のコートダジュール(紺碧海岸)が煌めく華やかなニースとは異なる。あくまでニースの貧しい郊外(バンリュー)であり、HLM(低所得者層の団地)が並ぶ団地群で育ったのだ。
ケシシュの父は塗装工。ケシシュ本人もフランスのバカロレア(高校卒業資格試験)に失敗したりと、それなりに挫折も味わっている。彼がこれまで撮ってきた映画は、どれも「社会階層の壁」についての映画であることは、決して偶然ではないのだ。
彼のデビュー作の『ヴォルテールのせい』(00)は、パリで不法滞在をするチュニジア人移民の青年の話だった。
2作目の『身をかわして』(04)は、パリ郊外の団地群に住む高校生が、18世紀の劇作家マリヴォーの『愛と偶然の戯れ』を練習する物語。
3作目の『クスクス粒の秘密』(07)は、南仏の漁村で船上レストランを開こうと画策するチュニジア人移民の男の物語。ケシシュは自分の父親を主役に迎えるつもりが、父親は撮影直前に亡くなり願いは叶わなかった。本作は、マグレブ移民第一世代への美しいオマージュでもあるだろう。
続く4作目の『黒いヴィーナス』(10)は、19世紀初頭に、見せ物として南アフリカから連れてこられた実在のホッテントット族の女性の話だ。
このように彼の作品には、いつだって登場人物の目の前に、社会階層の壁が色濃く立ちはだかっているのが特徴的だ。本人が移民のケシシュは、監督として常に社会的弱者として生きる主人公たちの気持ちに寄り添ってきたことだろう。
そして最新作の『アデル、ブルーは熱い色』だが、こちらもやはり社会階層の対立が見て取れる。
主人公のアデルは庶民的な家庭の娘であり、やがて幼稚園の先生となる。一方、青い髪のエマは、実際のレアと同じように裕福な家の出身だ。しかし保守的でお固いブルジョワ家庭ではなく、Bobo(”ボボ”と呼ばれる”ブルジョワ+ボヘミアン”の略で、自由業などに就く教養が高い豊かな左派)の家庭の娘である。
情熱的なエマから見ると、才能を伸ばすことに貪欲ではないアデルの態度は、どこか物足りない。だからエマはアデルに向かって「もっと自由に生きろ」とハッパをかけるが、アデルには伝わらない。
ふたりにとって、”同性愛”という愛の形は障壁にはならないが、社会階層の違いから生まれる意識のズレは、互いの関係にひずみを生じさせるものだろう。
だから本作は、同性愛の物語
論座ではこんな記事も人気です。もう読みましたか?